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    <title>スクーデリア・一方通行</title>
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    <subtitle>加瀬竜哉　ブログ</subtitle>
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    <title>Ｗｉｌｄｅｓｔ　Ｄｒｅａｍ～見果てぬ夢～　第三章</title>
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    <published>2011-12-30T11:06:55Z</published>
    <updated>2011-12-30T11:06:24Z</updated>

    <summary>スクーデリア・一方通行／加瀬竜哉書き下ろしｗｅｂ小説・特別集中連載「Ｗｉｌｄｅｓ...</summary>
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        <name>加瀬竜哉</name>
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        <![CDATA[<font color="#000000"><b>スクーデリア・一方通行／加瀬竜哉書き下ろしｗｅｂ小説・特別集中連載<br /></b></font><font color="#000000" size="+2"><b>「Ｗｉｌｄｅｓｔ　Ｄｒｅａｍ～見果てぬ夢～」</b></font><font color="#000000"><b><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="TEXT-ALIGN: center; MARGIN: 0px auto 20px; DISPLAY: block" class="mt-image-center" alt="syo09.jpg" src="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/images/syo09.jpg" width="480" height="320" /></span><br />第三章・決意<br /><br />「もうミーティングはウンザリだよ。しかも、このところ良い話だったためしがないんだから」<br />ＴＳＪのチーム・オーナー、林田勝は呆れ顔で、それでも持ち前の大声で笑った。が、こう毎日事件が勃発し続けるのではそれもやむを得ず、相変わらずモナコのホテルの一室は重苦しい空気に包まれていた。<br />「もう既にメールでもお伝えした通り・今度こそ風間が離脱しました」<br />大椋が汗を拭いながら話す。<br />「解ってるさ。それに、どうせ一度ケチがついたんだ。今更雰囲気を改善してどうなるものでもなかっただろう。アイツもそれは解ってる筈だし、さすがにもう戻って来ないと思うぞ」<br />桜田の言い分は完全に正論であり、現場にいた鈴石も大椋も大きく頷いた。ただひとり、風間と直接やり合った星田だけは、じっと一点を見つめて押し黙り、やがてゆっくりと口を開いた。<br />「皆知っての通り、『風間裕人』と言う名前、レーサー・ネームには、特別な想いがある」<br />全員が黙った。<br />「...伝説のレーサー、風戸裕だ。１９７４年のあの日、おそらくその後の日本のレース界を背負って立ったであろう未来のスターは、あまりにも若くして逝った」<br />「あれで富士の３０度バンクは閉鎖されたんですもんね...」<br />蓄積されたデータを掘り起こすように、大椋が呟いた。<br /><br />風戸裕。<br />若干１８歳で日本のレース界に颯爽とデビューし、多くの勝利と共にその美貌もが語り継がれる伝説のレーサー。将来を有望視されながらも、１９７４年６月２日、富士スピードウェイでのＧＣレース中の事故により、２５歳の短過ぎる生涯を終えた。一世を風靡したスーパー・カー漫画「サーキットの狼」の主人公、「風吹裕矢」のモデルとしても知られている。<br /><br />今ここにいる殆どの人間にとって、風戸は特別だった。誰もがその死を悲しみ、嘆いたのである。<br />「俺は風戸さんが死んだ年にフォーミュラ・カー・デビューした。どれほど憧れの存在だったか、は解ると思う。そして、この企画が来て『レーサー・ネーム』を付けると言われた時、俺は迷わずあの『ボーイ』の名前に風戸さんの字を入れようと思ったんだ」<br />皆解っていても、敢えて静かに星田の話に聞き入ることにした。<br />「...良い眼をしていたよ。最初はね。コイツなら一発やらかしてくれるんじゃねえか、と思わせる何かがあった気がしたんだ」<br />「皆そんなもんさ。で、実際にはそんな連中の中の、ほんの一握りだ」<br />林田が大声で制する。<br />「例えば可夢偉だ。奴はあの若さで、ちゃんと日本のＦ１を背負って立ってやがる。『自分がいなくなったら日本のＦ１が終る』って。そんなこと本気で言える日本人が今まで、チャンピオンになった企業や自動車メーカーの中にすらいたかい？。皆無責任に、自分達の都合でやったりやめたり、だ。フェラーリやマクラーレンはやめねえだろう？、それと同じことじゃねえか」<br />それはなんとも羨ましく、そして究極な話だった。<br />「...そんな夢を、一瞬でもあのボーイに重ねたことを今は恥ずかしく思う。皆、すまなかった」<br />星田は深々と頭を下げた。<br />「奴はサムライににゃなれなかった。それだけのことさ」<br />林田は立ち上がって星田の肩を叩き、皆の方を向いた。<br />「こんな、今時誰も知らないようなノスタルジーに浸ってても仕方がねえ。ボーイのことはとっとと忘れて、眼の前のレースの話をしようじゃねえか。で、やれんのか？」<br />「それが...」<br />大椋が伏し目がちに言葉を濁す。<br />「...スポンサーか」<br />感の良い桜田が即返し、鈴石が首のあたりを掻きながら立ち上がった。<br />「ま、風間を使わないのなら『コレっきりだ』と。明日から一切の投資もサポートも行わない、宿泊費も輸送費も知るもんか、と言う姿勢です」<br />「解った。んじゃ、とりあえず明日は皆で張り切ってボディのスポンサー・ステッカー剥がすか！」<br />桜田は無理のない、本当の笑顔を見せて言った。対照的に、星田は項垂れたままだった。<br />「皆...すまない」<br />「何言ってんの。星田さんのせいじゃないよ。サムライになれなかったボーイが悪いのさ」<br />「そう言うこと。じゃ、サムライの皆さんは明朝９時から、皆でボディのステッカー剥がし！。俺はリア・ウィングをやるわ」<br />「あ、一番デカイとこ取られたあ...」<br />たわいもないやりとりは、責任を感じ落ち込む星田に向けたものだった。<br />「ヘイ、ところで皆、僕のこと忘れてない？」<br />きついドイツ訛りを隠さず、ＴＳＪのエース・ドライバーであるジョナサンがまくしたて始めた。通訳が何処まで訳したのか、若干他のメンバーとはエキサイトするポイントが違うようだった。<br />「忘れてなんかないさ。そう言うわけで最後のモナコＧＰ、ウチのチームはジョナサンひとりだけのエントリーになる。マシンはトルコから大きく変わってはいないが、知っての通りのドライバーズ・サーキット、きっと我々にもチャンスが...」<br />宥めるように説明を始めた鈴石を制してジョナサンが笑う。<br />「僕は２００５年にここで予選３列目から３位表彰台に立っている。多分、ここに住んでたアグーロの次にこの街のことは良く知ってるつもりだ。任せてくれよ！」<br />「何って？」<br />ジョナサンがまくしたてたので、大椋が笑って間に入る。<br />「『任せろ』ですって！」<br />「頼りにしてるよ。そう言えば、お前いつだか表彰台に乗ったっけ？」<br />大椋がジョナサンにウィンクしながら続ける。<br />「その話を今してたんですよ」<br />「何だ、自慢話かよ！。ま、予報じゃ天気も下り坂だし、それこそウェット・レースにでもなれば何が起こるか解らない。そのためにも、なんとかジョナサンには予選を通過して貰わなければならん」<br />下を向いていた星田が顔を上げた。<br />「よし...ここからは作戦会議だ」<br />「おし、いっちょやったるで！」<br />...ひとつのネガティヴが生み出すポジティヴは、例え実態に乏しくも、極めてパワフルなものだ。<br /><br />水曜日。<br />Ｆ１モナコＧＰはモンテカルロの市街地を閉鎖して行われる公道レースが故に、一般的なクローズド・サーキットでの開催とは大きく違う点がある。多くのセレブが集まるモナコならではの決まり事として、本来金曜フリー走行、土曜フリー走行と予選、日曜決勝となるところを、木曜フリー走行、金曜は公道閉鎖を解いて走行は行われず、土曜から元のスケジュールに戻る。つまり、金曜は来賓客をもてなすパーティー・デイとなり、チームは作業することが出来ないのである。したがって、通常チームが作業する木曜日のスケジュールはそのまま水曜日に前倒しとなる。<br />ＴＳＪは他のチームと同様、何事もなかったかのようにマシンを組み立て始める。ただひとつ違っていたのは、そのマシンからはメイン・スポンサーである電脳のロゴが一切除去され、殆どノー・スポンサーの純白のカラーリングとなっていたことである。結果的に彼らはこの日もメディアの注目を浴びることとなった。<br />明日はいよいよフリー走行開始。チームは表彰台経験のあるエース・ドライバー、ジョナサンに全てを託し、最後のグランプリに望む。<br /><br /><br /><br /><br />次回に続く。<br /><br />※この物語はフィクションです。<br /><br /></b></font>]]>
        
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    <title>何処より早​いシーズン総括</title>
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    <published>2011-12-01T06:59:53Z</published>
    <updated>2011-12-01T07:01:14Z</updated>

    <summary> 全19戦に及んだ2011年シーズンも遂に閉幕。今回は恒例の&quot;スクイチ・何処より...</summary>
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        <![CDATA[ <font color="#3e6b3a">全19戦に及んだ2011年シーズンも遂に閉幕。今回は恒例の"スクイチ・何処より早いシーズン総括"をお届けする。<br />
<br />
ブリヂストンに代わって今季から新規参入のピレリ・タイヤと、Fダクトに代わるオーバー・テイク・アイテム"DRS"の採用により、近代F1最多のオーバー・テイク大会となった2011年シーズン。年間19戦の長丁場で史上最年少王者が記録を塗り替え、新たなグランプリ・サーキットが誕生し、日本のサムライはチームのエースとしてしっかりと仕事をしてみせた。<br />
反面、勝利を大命題とする名門が失速し、元世界王者がらしからぬミスを連発、それ故に大味なレース展開も多く、シーズンを通しては少々物足りなかったのも事実である。<br />
<br />
<br />
◇ベスト・ドライバー：セバスチャン・ヴェッテル<br />
疑う余地は全くない。24歳の若さで年間11勝、ポール・ポジション獲得15回は'92年のナイジェル・マンセルの記録を19年振りに破る大記録、しかも19戦中リタイア1回/4位1回以外は全て表彰台、と言う快挙。チーム・メイトを大幅に引き離す圧倒的な強さでライバル達の戦意を喪失させた。タイトル決定の日本GP3位表彰台で見せた悔しさと、あくまでもポール・ポジション、優勝、そして最速ラップ樹立のハット・トリックを狙うその"完璧主義"は時折チーム内に不安要素を齎すが、その精神力の強さこそが今のヴェッテルのモチヴェーションを支えているのだろう。ともあれ、2年連続ワールド・チャンピオンに相応しい走りを魅せたヴェッテルに死角はない。<br />
また、荒れたレースで見事なタイヤ・マネージメントを行い、3勝を挙げたマクラーレンのジェンソン・バトン、結果は1勝ながら自らの地元バルセロナ、フェラーリの地元モンツァで不利な予選順位から見事にスタートでトップを奪う好走を魅せたフェルナンド・アロンソも見事な仕事をした。<br />
<br />
<br />
◇ベスト・チーム：レッドブル<br />
年間12勝、18ポール・ポジション獲得、2011年シーズンを退屈にさえしてしまったレッドブル。RB7・ルノーはストップ＆ゴーから高速コーナーまで、全てのタイプのサーキットで無類の強さを発揮、ブロウン・ディフューザーは完璧に熟成された。マーク・ウェバー車には度々KERSとスタート・システムに不備が起きていたが、それでも圧倒的な信頼性と強さでダブル・タイトルを獲得。奇しくも、マンセルのポール・ポジション記録を破ったのは、'92年のウィリアムズと同じくエイドリアン・ニューウィーが造り、ルノー・エンジンを搭載したマシンだった。<br />
<br />
<br />
◇ベスト・レース：第7戦カナダGP<br />
悪天候の中セーフティ・カー先導でレースがスタートし、ヴェッテルが先行。ウェバー、ハミルトンらが自滅する中、13番手スタートの小林可夢偉が着実に順位を上げて行く。雨が強くなった25周目にレースは赤旗中断、天候回復を待って2時間後に再スタート。2位まで上がっていた可夢偉は10周に渡ってフェラーリのマッサと熾烈な争いを繰り広げた。レース後半、シューマッハー、ウェバー、バトンによる激しい2位争いをバトンが制し、遂にはファイナル・ラップでミスしたヴェッテルをも劇的に抜き去り、結局バトンの逆転勝利。健闘の可夢偉は結局7位フィニッシュ。<br />
待たされた分だけ十分に楽しめた、最高のレースだった。<br />
<br />
<br />
◇ルーキー・オブ・ザ・イヤー：ポール・ディ・レスタ<br />
8戦入賞で27ポイントを獲得し、ドライバーズ・ランキング13位となったディ・レスタ。第9戦イギリスGPでは予選6位を獲得し、第14戦シンガポールでの決勝6位が最高位となった。冷静な判断力とドライビングでチーム・メイトのベテラン、スーティル相手に堂々と戦い、予選では9勝10敗と健闘。ザウバーのペレス（16位）、ウィリアムズのマルドナド（19位）ら同期を完全に凌駕した。チームの来季体制が不透明だが、未来のチャンピオン候補のひとりとして、今季は良い仕事を行った。<br />
<br />
<br />
<br />
◆ワースト・ドライバー：ルイス・ハミルトン<br />
度重なるマッサとの接触、スパでの可夢偉との接触など、一体「何処を見て」走っているのか。多くは書かないが、元世界王者としてはあまりにもお粗末なシーズンだった。速さに溺れて集中力を失うと、いつか確実に大きな事故を招く。来季生まれ変わることを期待する。<br />
ラリー事故で離脱したロベルト・クビサの代役としてルノーに加わったニック・ハイドフェルドも大きく期待を裏切った。途中解雇も当然の成績。ウィリアムズのマルドナド、ヴァージンのダンブロシオのふたりのルーキーも、正直デビュー前の期待を裏切る結果となった。ダンブロシオにいたっては最終戦終了直後に解雇発表となり、短いF1生活にピリオドを打った。<br />
<br />
<br />
◆ワースト・チーム：ザウバー<br />
開幕戦ではダブル入賞を飾ったかと思いきやリア・ウィングの規定違反で失格、シーズン前半の勢い（それもドライバーの頑張りあって、だが）は、イギリスGP時のブロウン・ディフューザー禁止騒ぎで開発中止を決定したことで完全に裏目に出た。コンストラクターズ6位から見る見るうちにフォースインディアに逆転され、最後はトロロッソと7位を争う羽目に。エース・可夢偉はピレリの評価で全ドライバー中3番目にタイヤ・マネジメントの上手いドライバーとして果敢にポイントを獲得、ルーキーのペレスも可夢偉と予選で堂々と渡り合う活躍を見せながらも、決勝でのタイヤ戦略で明らかにポイントを逃したレースが多過ぎる。BMW無きあとの、これがザウバーの限界か。<br />
2年連続でコンストラクターズ最下位となったヴァージン。これまた2年連続開幕戦がシェイク・ダウン、と言うHRTの後塵を拝し、チーム体制を一新する来季もKERS搭載の予定はなく、一体何が目標なのか疑問である。<br />
<br />
<br />
◆ワースト・レース：第16戦韓国GP<br />
「冷蔵庫から昨年の残り物が出て来た」「誰も使ってない筈なのにドーナツ・ターンの跡があった」など、初開催となった昨年のレース以来全く使われていなかった韓国インターナショナル・サーキット。2年目の今年、決勝レースは入場者8万人と発表されたが、チーム関係者からは「蚊の数も入れたか、魚も数えたんだろう。しかも2回ずつね」と皮肉を言うほどスタンドはガラガラ。実質的に大赤字なイベントとなり、プロモーターはバーニー・エクレストンに助けを求めている状態である。ヒュンダイのF1参戦の噂も聞かなくなり、この国でのF1開催継続に赤信号が灯っている。<br />
<br />
<br />
◎キー・パーソン・オブ・ザ・イヤー<br />
・道端ジェシカ<br />
バトンのGFとして度々国際映像に登場するジェシカ嬢。遂にはタグ・ホイヤーの日本人初ブランド・ミューズに就任、東日本大震災後には震災復興の為の救済義援金活動として「TEAM JESSICA」を立ち上げ、F1関係者らに協力を訴えている。ジェンソンの父ジョン・バトンと共に、レースを終えたバトンを明るく迎える姿は微笑ましく、今や中継になくてなならない存在となった。<br />
・小松礼雄<br />
ルノー・チーム、ヴィタリー・ペトロフ担当エンジニアの小松礼雄（あやお）氏。ルノーのピット・ウォールの造り/並びもあるのだろうが、何故か今季やたらと国際映像に登場、フリー走行時はほぼ名物コーナーとなった。ちなみに小松氏は元BAR・ホンダのエンジニアで、'06年からルノーで働いている。<br />
・バーニー・エクレストン<br />
.....アブダビでヴェッテルがリタイアした際、まさかF1ボスのバーニーが直接ピットまで慰めに来るとは思わなかった。来季、ヴェッテル3連覇はもう決まったようなモンである.....。<br />
<br />
<br />
<br />
最後に、悲しい事故でこの世を去ったダン・ウェルドン＠インディ・カー、マルコ・シモンチェリ＠モトGPのふたりに哀悼の意を表する。もう2度と、悲しい事故が起きませんように。<br />
<br />
<br />
      .....なんだかんだ言いつつ、今季も手に汗握り、一喜一憂/狂喜乱舞したF1世界選手権。来季は更に'07年王者、キミ・ライコネンが帰って来る。総勢6人のワールド・チャンピオンが勢ぞろいする来季も素晴らしいレースが繰り広げられることを期待しつつ、開幕を待つこととしよう。山口村長を始めSTINGER村の皆さん、1年間お疲れ様でした。<br />
      <br />
      <br />
      </font>]]>
        
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    <title>Good bye,Marco</title>
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    <published>2011-10-25T03:22:41Z</published>
    <updated>2011-10-25T03:22:44Z</updated>

    <summary>Also became a sad day for motorsport,His...</summary>
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        <![CDATA[Also became a sad day for motorsport,<br />His family, friends, condolences to all concerned I would like to MotoGP.<br />We will not forget you.]]>
        
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    <title>Dear Dan,</title>
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    <published>2011-10-18T03:02:55Z</published>
    <updated>2011-10-18T03:02:40Z</updated>

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        <![CDATA[Thank you a lot of excitement and inspiration,<br />We will not forget you.<br />Good bye,Dan.]]>
        
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    <title>2011@suzuka</title>
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    <updated>2011-10-10T00:10:26Z</updated>

    <summary>Congratulations,Seb!You have done a grea...</summary>
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        <![CDATA[<p>Congratulations,Seb!<br />You have done a great job all season and deserved the title.<br />to became a double World Championship is a very very good job.<br />You are the real World Champion!<br />Thank you very much!!</p>
<p>
<p>
<p>
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="TEXT-ALIGN: center; MARGIN: 0px auto 20px; DISPLAY: block" class="mt-image-center" alt="" src="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/images/01vettel.jpg" width="180" height="260" /></span></p></p></p>]]>
        
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    <title>Ｗｉｌｄｅｓｔ　Ｄｒｅａｍ～見果てぬ夢～　第二章</title>
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    <published>2011-06-11T11:55:09Z</published>
    <updated>2011-06-11T11:57:50Z</updated>

    <summary>スクーデリア・一方通行／加瀬竜哉書き下ろしｗｅｂ小説・特別集中連載「Ｗｉｌｄｅｓ...</summary>
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        <category term="タチの悪いグランプリ考察" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<p><font color="#000000"><b>スクーデリア・一方通行／加瀬竜哉書き下ろしｗｅｂ小説・特別集中連載<br /></b></font><font color="#000000" size="+2"><b>「Ｗｉｌｄｅｓｔ　Ｄｒｅａｍ～見果てぬ夢～」</b></font><br /></p>
<p>
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="TEXT-ALIGN: center; MARGIN: 0px auto 20px; DISPLAY: block" class="mt-image-center" alt="syo08.jpg" src="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2011/06/11/images/syo08.jpg" width="480" height="320" /></span><font color="#000000"><b>第二章・反逆<br /><br />火曜夜。<br />Ｆ１モナコＧＰの週末に向け、モンテカルロ市街地サーキットはグランプリ開催準備に余念がない。先週までただの街角だった交差点はＦ１マシンの走行のために特別なガード・レールによってコース割が施され、グランプリを彩る様々な企業看板が並び、足場を組立てた簡易観戦スタンドが建てられる。その様はあまりにも特殊で、街全体、いや国全体が巨大な祭りの準備をしている、と言っても過言ではない。<br />「アグーロ！。セナが勝ったレースで、ここでスピンしてたのを覚えてるよ！」<br />明らかに酒に酔った２人組の男が、反対車線側から赤いフェラーリの帽子を振りながら上機嫌で声をかけて来る。<br />「ハハハ。サンキュ！。」<br />前夜のテレビ報道により、今やモナコでも「時の人」となってしまった感のあるＴＳＪの面々。特にスポーティング・ディレクターと言う位置付けの鈴石亜久郎は１９９０年代にモナコに住み、そしてレースで自らの暮らす街を走っていたと言う特殊な経歴を持つ。<br />「毎朝、カーテンを開けて眺める景色の中を６００馬力のエンジン背負って突っ走るんだ。そりゃまともじゃないよねえ」<br />海岸に浮かぶ多くのクルーザーのシルエットを眺めながら、鈴石は懐かしそうに呟いた。パパラッチが気になる大椋だったが、ヨーロッパのレース・ファンのフランクさに、やや安心の表情を浮かべた。<br />「それにしても、いったい誰が考えたんですかね」<br />「ん？、何を？」<br />「モナコＧＰを、ですよ。だいたい一般道でレース、ってだけでもまともじゃないのに、よりによってＦ１を、よりによってこの狭いモナコで、ですよ。普通に競争前提で考えたら、こんなに無茶なレースはない筈なのに」<br />「普通も何も、実際無茶だよ。だって、ロウズ・ホテルのヘアピンなんてステアリング目一杯切んなきゃ曲がんないし、トンネルなんか何も見えやしないし。だいたいここじゃ、ぶつけなきゃ絶対抜けない。そりゃ５０年前も俺ん時も今も一緒」<br />「なのに、何でずっとやってんですかね」<br />「ま、モナコって言う豪華な国がある。そこに金持ちが集まる。クルマを見せびらかす。人が集まって来た。ちょっと走らそうか。ついでに順位つけちゃえば立派なイベントになるな、てのが基本理念。まず競争じゃなく、まずイベント。それが高貴なヨーロッパの連中の考え方。こりゃ敗戦国ニッポンには存在しなかった価値観だ」<br />「まあ、確かにそうですけど...」<br />「でさ、そこに抜ける筈のないようなこんな面倒なコースで、神懸かり的なドライビングを見せる奴が、たまに現れる。ヒルとかセナとかシューマッハー、みたいな、ね。だからいつまでもレースとして成り立ってんだ。で、俺はそう言う伝説にゃなれなかった、と」<br />「９２年の１１位が最高でしたっけ。フットワークでしたよね」<br />「良く覚えてんな、そんなの」<br />「あの時も日の丸っぽい赤白のカラーリングで...何と言うか、ナショナリズムでしたねえ」<br />「あのね、こっちにはそう言う概念がないの。ブラジル人のセナがイギリスのマクラーレンと日本のホンダでフランス人のプロストに勝てば良いの。なんか、日本は『世界を相手に』とか『ヨーロッパを股にかけて』とか、相手を勝手に大きくしてるんだよな。実際にはもっと身近なさ、眼の前のガキ大将をどうやってやっつけるか、そのためにどんな道具を使ってやろうか、みたいなさ。フェラーリだって、イタリアがヨーロッパでナンバー１だ、近所のイギリスとかフランスのクルマにゃ負けない、って言う感覚。もう根本から違うわけ。それを、なんか『大和魂』みたいので立ち向かっちゃうと、ちょっと空回りしちゃうんだよ」<br />実際モナコと言うヨーロッパ都市に暮らし、世界最高のＦ１グランプリのドライバーとして闘い、自らチームを率いた経験のある鈴石ならではの見方だった。<br />「日本は、特に企業が絡むとそうは行かなくなってしまってましたもんね」<br />「そりゃあそうだよ。参戦する側の自動車産業は当然のこと、スポンサーも皆そこに利益を求めて集まって来る。だがソイツはドライバーの、さっき言った『個人的な喧嘩』みたいな部分とは無関係。だから難しい。昨日まで赤白のマルボロ・カラーだったセナが今日から青いロスマンズ、みたいな感覚が当時の我々には理解出来なかった。ナショナリズムでやっちゃうからなんだよね。セナは、隣にいるプロストからチャンピオン・フラッグを奪いたいだけだった。だから何でも出来たんだよ」<br />「...どうしました？」<br />鈴石はふと立ち止まり、沖の夕闇を見つめて大きく息を吐いた。<br />「...でもさ、俺達の世代にゃ、結局それしか出来ないんだ。日本を背負っちゃった、って言うのかな。中嶋さんもそうだったけど、現場とブームの温度差は大きかった。バブル景気だったし、それこそ日本は『Ｆ１ブーム』だったから、この巨大なスポーツ・イベントに誰もが押し掛けて、それが全て、みたいになっちゃった。...ただひとりを除いて、ね」<br />「ただひとり...あの人ですよね」<br />「そ。あの人」<br /><br />...星田一俊。ＴＳＪのチーム監督であり、かつて「日本一速い男」の名を欲しいままにした不世出の名レーサーは、１９７６年、日本に初めてＦ１レースがやって来た時、ヨーロッパのドライバーを迎え撃つべく地元・日本からエントリーした、言わば日本のＦ１ドライバーの草分けである。しかも初レースとなった富士では予選２１番手から雨の中奇跡の追い上げを見せて３位まで上昇、しかし雨が上がった際、ドライ・タイヤが足りずに無念のリタイアとなり、幻の表彰台となった伝説を持つ。<br />以後国内レースでは無敵を誇った星田だったが、１９８７年以降の所謂「Ｆ１ブーム」とは縁がなかった。もちろん年齢／実力的には申し分なかった筈だが、ホンダやトヨタがＦ１に挑戦するのを尻目に、契約していたメーカーがＦ１進出を行わなかったのが大きくキャリアに響き、以後Ｆ１に乗ることはなく、２００２年に現役を引退していた。<br />環境、タイミング、想い。全てのバランスが星田をＦ１には導かなかったのである。<br /><br />「でもあの人にもそう言うチャンスはあった」<br />「もちろん」<br />「でも...乗らなかった」<br />「そう。乗らなかった。乗れなかったんじゃなく、乗らなかったんだ」<br />「１９９０年の鈴鹿で、トップ・チームのベネトンからヘリコプターの事故で出れなくなったナニーニの代わりを打診されて、その時にベネトンは当然のように持込資金を要求したけど、俺はプロのレーサーだから、例え２万円でも貰わなきゃ乗らない、って言ったと言う話がありますね」<br />「それが本当かどうか知らないけどさ、そんな噂が出るところが如何にも星田さんらしいじゃない」<br />「ところで、そのレースで...」<br />「そう、俺がＦ１で唯一の表彰台に乗ったレース」<br />「ちなみにナニーニの代役にロベルト・モレノが乗ったベネトンは...」<br />「俺の前。つまりベネトンの１－２フィニッシュだった。優勝は３度の世界王者、ネルソン・ピケ」<br />「つまり、もし星田さんが乗ってたら...」<br />「ハハハ。好きだねえ、そんな話」<br />「だって、悔しいじゃないですか」<br />「悔しい、か。...それはちょっと違うかも知れないね。エディ・アーバインとかフレンツェンとかがＦ１の記者会見で『日本には俺達が適わないとんでもないレーサーがいる』って星田さんのことを自慢してたんだけどさ、あの人は自分のキャリアを誇りにしてると思うよ。Ｆ１どうのこうの、ってのはあくまでも周りが言うだけで、あの人自身はそんなこと気にしてないさ」<br />「うーん...もしも星田さんがＦ１に乗ってたら、って、やっぱり考えちゃいますよね」<br />「Ｆ１だけが全てじゃないさ」<br />鈴石は自身が日本人初のＦ１表彰台経験者だが、キャリア２年目にそのピークを迎えていた。当然３年目以降はそれ以上の成績を目指し、チーム体制なども含めてステップ・アップする筈だった。しかし上手く行かず、不本意な現役引退を迎える。その後ホンダのバック・アップで自己の名を冠したＦ１チームを結成、だが肝心のホンダが経済不況を理由にＦ１から手を退き、鈴石のチームもまた経営不振で撤退を余儀なくされた経緯を持つ。<br /><br />「そう考えると、ウチは本当にドリーム・チームじゃないですか」<br />「少なくとも日本のレース界を支えて来た人達が集まってるのは確かだよ。ただ、タイミングは本当に最悪だった。経験もノウハウも申し分ないのに、それを回すための環境がない。ＦＩＡもなんとか予算を下げようと努力してくれたけど、それに報いることは...出来なかった」<br />話が弾んでいた鈴石と大椋だったが、ふと前夜にＦ１からの撤退が決まったばかりだった現実に帰った。<br />「ま、結局のところはＦ１はあまりにも特殊なところ。でも、フェラーリとかマクラーレンとかの連中は、それが当たり前の生活をしてるの。この非・日常のＦ１が日常...羨ましいねえ」<br />大椋の携帯が鳴った。<br />「おっと、このタイミングでの広報からの電話はロクな話じゃないんだ。はい、もしもし...何だって！？」<br />「はあ...ま、もう大抵のことじゃ驚かないけどね...」<br />鈴石は以前暮らしたサン・デ・ボーテのマンションを見上げて苦笑いした。<br />「...風間がホテルに戻って来たそうです」<br />「ハッハッハ。アイツ、日本に帰ったんじゃなかったのか」<br />「星田さんと話したい、と言って待ってるらしいです」<br />「よし、俺も行こう。あの我侭ボーイの面倒は星田さんひとりじゃ無理だ」<br />「はい」<br />鈴石と大椋は今来た道を足早に戻る羽目になった。<br /><br />ＴＳＪのドライバー、風間裕人は大股開きでホテルの部屋のソファに座り、髪の毛を掻きむしりながら足を激しく揺すっていた。この若きレーサー、いやレーサー兼二枚目タレントは明らかに「我慢」が苦手なタイプだった。それもその筈、裕福な家庭に育ち、学生時代からチヤホヤされて来た典型的なお坊っちゃまである風間は、例え相手が誰であろうとも怯まないその強さだけは高い評価を得ていた。<br />「よう、何の用だ？」<br />ノックもなく部屋に入って来た星田は風間の対面には座らず、ソファの後を素通りして窓へと向い、やや乱暴気味にカーテンを開けた。その空気の流れに、風間のイライラは一層増したようだった。<br />「何で帰って来たのか、聞かないんですか」<br />「ん？、聞いて欲しいのか？」<br />星田は笑いながら上着を脱ぎ捨て、聞いた。自分のペースで物事が進まなくなった時、風間の髪を掻きむしる仕草はより激しさを増す。<br />「昨夜は飛行機の出発が２時間も遅れましてね。とてもじゃないけど待ってらんないから、そのままマネージャーとカジノに行って...」<br />「何の用かを聞いてるんだが」<br />話を制された風間はわざと星田に聞こえるようにチッと舌打ちし、勢いあまってソファから立ち上がった。<br />「いくらこれが最後だからって、ドライバーがいないんじゃチームだって困るでしょう。こんな形は不本意だけど、契約だってあるし、だいたい僕がいなきゃ初めから話になんないんだから」<br />「いや、そんなことはないさ。既に昨夜、複数のドライバーから我々のシートに関する問い合わせがあった」<br />「誰からです？、何って答えたんですか？」<br />「君には関係ない。それこそ秘密保持は契約上の義務だ。そんなこと解ってるだろう？」<br />風間は憤慨し、星田に対してこれ見よがしに、わざと倒れ込むような姿勢でソファに座り直した。<br />「忘れないで欲しいな。ＴＳＪは僕のためのチームだ。僕を中心にプロジェクトが立ち上げられ、僕のためにスポンサーが動き、僕を走らせるために存在するんだ」<br />ここまで風間と眼を合わせなかった星田が、突如鬼のような形相で風間を睨みつけた。<br />「ふざけるな！。だったら何故ひとりで帰ろうとした？、チーム全員が問題に直面し、闘っている時に、どうしてオマエだけが逃げ出せるんだ。それで良くチームだなんて言えるな？」<br />「あんな話を聞かされたら、誰だってその場から逃げ出したくなるでしょう」<br />「いや、オマエ以外、誰ひとり逃げ出さなかった。全員で問題を受け止め、今後どうするべきかを話し合った。スタッフだけじゃない、ジョナサンもだ」<br />「だいたいこれは僕の責任じゃない。どうして僕がそこにいなくちゃいけないんだ。僕達ドライバーのために問題を解決するのがチームの仕事でしょう？」<br />「ピンチに一目散に逃げ出すような奴のために、誰が必死に取り組むと言うんだ！？」<br />予想に反し、あまりにもエキサイトした星田の声に驚きながら鈴石と大椋が急ぎ部屋に入って来た。<br />「いい加減にしてくれ。僕はスターだ。スターを輝かせるために、スタッフは一丸となってチームを強くする。それが当たり前のことでしょう」<br />「確かにオマエはスターさ。ドライバーはレーシング・チームの花形だ。そのことに異論はない。ただ、そのスターもチームの一員なんだ。皆が同じように働き、上を目指し、闘う。そこに優劣などないんだ。オマエはそれを解っていない。自分は悪くない、周りが悪い、と繰り返すばかりだった。それではチームにならない。まして勝負にはならないんだよ」<br />珍しくエキサイトする星田の姿に、鈴石も大椋も唖然となっていた。が、その状況が今後の、まして眼の前に迫ったＦ１モナコＧＰに良い影響を及ぼさないことだけは明らかだった。<br />「星田さん、もう...」<br />「裕人、いい加減にしろ。何処まで勝手なことをすれば気が済むんだ」<br />「ああもう、いい加減にしてよ。僕のＦ１レーサー計画は、この愚かな集団のせいで台無しだ」<br />「...何だと！」<br />星田が風間に殴りかかるよりも前に、小さな瞳から大粒の涙をこぼしながら、大椋が風間の胸ぐらを掴んでいた。<br />「お前なんか、お前なんかに...星田さんの気持ちが解ってたまるか！」<br />「大椋、やめろ」<br />今度は星田が大椋を制した。しかし更にふたりに割って入るように、今度は鈴石が静かに話し始めた。<br />「星田さんがかつて『日本一速い男』と呼ばれたことは、流石にまだ生まれていなかったお前でも知ってるだろう。俺達全員が束になって向って行っても、この人には適わなかった。が、俺達日本人がＦ１と言うモーター・スポーツの最高峰にようやく行きついた時、運命は星田さんに残酷だった」<br />「よさないか、鈴石」<br />星田は冷静になり、ようやくソファに座った。風間は乱れた髪を直す仕草を見せたが、そこにいる誰とも眼を合わさなかった。<br />「いや、言わせて貰います...中嶋さんや俺や右京を初め、色んな人がこの最高峰カテゴリーに挑戦して行った。そして、確かにホンダやブリヂストンのような企業は成功したかも知れないが、これまでドライバーの成功者は出なかったのは知っての通りだ。しかしそれは、もしかしたら星田さんだったら出来たかも知れないことだった。もちろん時代が、文化が、性能がモノを言う世界だ。しかしこの人はまだＦ１が日本に定着する以前、決して勝てるとは言えない体制で彼等に挑み、素晴らしいレースを魅せてくれた人なんだ」<br />大椋の息づかいが落ち着くと、その場にいた全員がやや平静さを取り戻し、一瞬の静けさが部屋を包んだ。<br />「...ほんの小さなことなんだ。そのほんの小さな歯車の狂いが、歴史に大きく影響した。１９７６年の富士で、本当にこの人は世界を相手に闘い、そして勝てたかも知れなかったんだ」<br />「もういい、鈴石。今更な話だ」<br />「いや、俺はこの若僧に、多くの人が築き上げて来た歴史の重みを解らせたいんだ。誰でもポンと行って出来ることではない、その中には多くの紆余曲折があり、多大なる年月をかけ、多くの人々が挑戦して、今がある。そして笑った人もいれば、泣いた人もいるんだ。と言うことを」<br />「へっ、冗談じゃない」<br />鈴石が話終らない内に、風間は再び激しく髪を掻きむしり始めた。<br />「だから何なんですか。そんな話は僕には関係ない。今は２１世紀なんだ。自動車メーカーがどうの、負けた人がどうの、なんて話に興味はないね」<br />「何だと」<br />鈴石が声を荒げる。<br />「もういい。勝てなかったのは事実だ」<br />「浪花節なら勝手にやって下さいよ。僕には関係ないことだ」<br />鈴石が眼を合わさぬまま風間に問いかける。<br />「裕人、最後にもう１度だけ聞く。何しに帰って来た？」<br />「帰って来た？。違いますよ。ＴＳＪは僕のためのチームだ。僕がいなきゃ意味がないからここにいるんだ」<br />「解った」<br />ふっと笑みにも似た一呼吸を置き、鈴石の拳が風間の頬を捉え...いや、正確にはヒットする直前に星田の右手が鈴石の拳を受け止め、風間は両手で頭を抱えて震えていた。<br />「今すぐ出て行け、裕人。たった今、俺の一存で貴様は解雇だ」<br />「鈴石さん！そんなことしたらモナコＧＰが...」<br />「かまわん。我々にはジョナサンがいる。もうこんな馬鹿野郎は必要ない。とっとと日本に帰ればいい」<br />「フッ、ハッハッハ。鈴石さん、今日のことは良く覚えておいて下さいよ。どんなことになっても僕は知らな...」<br />「さっさと出て行け！」<br />一瞬の間を置き、風間裕人は思い切りドアを閉めながら部屋を出て行った。部屋に残された３人は誰もその場から動かなかった。<br />「いいんですか、鈴石さん」<br />大椋が袖で頬を拭きながら聞いた。<br />「良くなんかないさ。ないけど、アイツはもうチームの一員じゃない。ついでに、スポンサーが離れる以上、もう裕人に拘る必要はない」<br />「でも、このレースまでは電脳の資金でやってるんです。これじゃ明日から一切の資金調達が出来なくなるかも知れない」<br />「そんなことはどうでもいい。...星田さん、俺は間違ってますか」<br />星田は一点を見つめたままだった。<br />「解らん。が、少なくともこれでまた失うものがひとつ増えたことは事実だ」<br />「...。」<br />再び部屋を静寂が包んだ。そこへ、ＴＳＪのエグゼクティヴ・ディレクターである桜田繁敏が大股で入って来た。<br />「騒々しいと思ったら、やっぱりこんなことか。坊っちゃん、あの剣幕じゃ今度こそ帰って来ねえぞ」<br />「もういいんです。奴はたった今、解雇しましたから」<br />鈴石が深呼吸をしながら呟く。<br />「ま、あのくらい虚勢を張る方が、世界を相手に闘うには意外にいいのかも知れん。いつの日かＦ１チャンピオンになってるかも知れないぞ」<br />「俺達は...古いんですかね」<br />鈴石の口元が緩んだ。<br />「もちろん古いさ。だから集まるんじゃねえかな。浪花節もお得意、お涙頂戴大歓迎だ」<br />「桜田さんにはかなわんな」<br />ようやく星田が落ち着きを取り戻し、笑みがこぼれた。<br />「大椋、ミーティング続きで悪いが、また林田さん達を呼んでくれ。事の顛末をボスに知らせなきゃならん。それともちろん、ジョナサンもだ」<br />「解りました」<br />現場人間の桜田が部屋の空気を変える。<br />「セナが来たっけな」<br />「...１９８７年ですか」<br />またも大椋が食いつく。<br />「ああ。ルノーで走ってんのに、『どうしてもホンダ・エンジンで走りたい』って、監督の泊まってるホテルまで押し掛けて来たんだ。あのストイックさにゃ誰も適わないね...ハハ、どうしてこう、想い出話になっちゃうかな。さ、レースの準備だ。天下のモナコＧＰだぜ！」<br />ムード・メーカーの大きな声は部屋中に響いた。しかし、そこにいる誰もがその言葉にひとことも返せずにいた。<br /><br /><br /><br />次回に続く。<br /><br />※この物語はフィクションです。</p>
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    <title>Ｗｉｌｄｅｓｔ　Ｄｒｅａｍ～見果てぬ夢～　第一章</title>
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    <published>2011-05-10T15:30:17Z</published>
    <updated>2011-06-11T11:43:06Z</updated>

    <summary>スクーデリア・一方通行／加瀬竜哉書き下ろしｗｅｂ小説・特別集中連載「Ｗｉｌｄｅｓ...</summary>
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        <name>加瀬竜哉</name>
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        <![CDATA[<font color="#000000"><b>スクーデリア・一方通行／加瀬竜哉書き下ろしｗｅｂ小説・特別集中連載<br /></b></font><font color="#000000" size="+2"><b>「Ｗｉｌｄｅｓｔ　Ｄｒｅａｍ～見果てぬ夢～」</b></font><font color="#000000"><b><br /><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="TEXT-ALIGN: center; MARGIN: 0px auto 20px; DISPLAY: block" class="mt-image-center" alt="syo06.jpg" src="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/images/syo06.jpg" width="480" height="320" /></span>第一章・夢と現実<br /><br />「ふう...やっぱり駄目か...」<br />携帯電話を閉じ、スーツの右ポケットに戻しながら、ＴＳＪ（チーム・サムライ・ジャパン）のスポーティング・ディレクターである鈴石亜久郎は、滞在先のモナコのホテルの一室で深く溜息をついた。電話の相手はチームのメイン・スポンサー、株式会社電脳の堀川社長。今日既に５回目の国際通話、ただし最初は社長当人だったのが、この２回は弁護士とのやりとりとなっている。<br />「駄目ってことは、先日の方針に変わりはない、と言うことですかね」<br />右手でネクタイを緩めながら、ＴＳＪ広報担当の大椋茂男が聞いた。ふたりとも、モナコ入りしてからまだろくにソファにも座れないでいる。<br />「ああ。今年はこのままＧＴに専念するんだとさ。ま、客観的に考えりゃあ無理もない。開幕から４戦、２台の内１台は全部予選落ち、もう１台もまともに完走すら出来てない。しかも前回のトルコから各チームがアップ・デートを持ち込んでる中で、ウチだけが２００９年設計のベーシックのままだ。そりゃスポンサーだって嫌気が差すだろうよ」<br />「となると、いよいよこれまで、ってことですよね...」<br />「そうだな。なにしろＧＰ２チームにモーター・ホーム借りてるような状態なんだから、日曜、いや、ヘタすりゃ土曜日の予選が終ったら荷物をまとめて日本に帰る、ってことになるだろうな」<br />「...悔しいですね...」<br />大椋はシャツの袖で額の汗を拭いながら、ホテルの窓から見えるきらびやかな景色を恨めしそうに眺めた。鈴石は大椋の肩をポンと叩き、無言のまま敢えて景色に背を向けた。<br /><br />ＴＳＪ／チーム・サムライ・ジャパンは、２００９年に結成された純日本製・Ｆ１チームである。ＦＩＡのバジェット・キャップ案によってロータス、ヴァージン、そしてＨＲＴらと共にＦ１に新規参入。日本のＩＴ企業の大手である株式会社電脳がメイン・スポンサー／出資者となり、ホンダやトヨタ亡き後、これまで日本のレース界を引っ張って来た面々を集結させ、ヨーロッパへ殴り込みをかけた。<br />チームの母体は林田勝率いる日本の老舗コンストラクターであるドリーム・ファクトリー。マシン・デザインは第一人者であるサン・クラフトの由里拓夫が手掛け、コスワースＶ８を搭載したＦ１マシン、ＴＳＪーＦ０１を設計、京都の自前の風洞施設で開発を行って来た。チーム代表／監督はインパルスを率いる元・日本一速い男こと星田一俊、マネージング・ディレクターは元Ｆ１ドライバーでチーム参戦経験をも持つ鈴石亜久郎、他にも元ホンダやトヨタでのレース経験者がズラッと名を連ねる、ＴＳＪ言わば日本のレース界のオール・スター編成による特別プロジェクトである。<br />しかし社会情勢の混乱から２０１０年の参戦が見送られ、特別処置により１年遅れて２０１１年よりＦ１世界選手権に参戦。ドライバーはドイツ出身のベテラン、ジョナサン・カイルと、日本でスカラシップを勝ち上がって来た風間裕人。しかし風間は実はバックに芸能スポンサーの付いたタレント・レーサーで、本来このプロジェクトは電脳が風間をメディア露出させるために立ち上げたもの。実力的には本来Ｆ１レベルにはほど遠い。<br />２０１１年初戦オーストラリアＧＰはカイル／風間両者共に予選落ち、第２戦マレーシアＧＰはカイルがどうにか最後尾で予選通過するも電気系トラブルで７周リタイア、第３戦中国ＧＰは再び両者共に予選落ち。第４戦トルコＧＰは巧者カイルが最高尾でどうにか予選突破、しかし１５周目にターン８で大スピンを喫しマシン大破。テレビ露出も殆どない状況に嫌気が差したスポンサーは契約を見直し始め、第５戦スペインＧＰを急遽欠場。尻すぼみとなったバジェット・キャップ案によりチーム運営費は再び高騰、そこへ東日本を襲った大災害などの要素も含め、チームは窮地に立たされていた。そして遂に、始動者であるスポンサーの電脳がプロジェクトからの離脱／撤退を決断、チームは空中分解の危機を迎えていたのである。<br /><br />...かつてはここモナコに暮らし、自分の住む街をＦ１マシンで疾走し、そして今回と同じように自らのチームを経済的な事情で失った経験のある鈴石にとって、こうして繰り返される現実はあまりにも重かった。が、その重苦しい空気が流れ続けるのを待つ暇すらなく、今度は大椋の携帯が鳴った。広報アシスタントからの着信は、続けざまに降り掛かる不幸の連鎖を予感させるに充分なものだ。<br />「はい...何だって？、風間が日本に帰った？」<br />「...はあ。もう知らん」<br />その知らせは、決して予想以上でも以下でもなかった。若干２３歳でＦ１デビューしたＴＳＪのレース・ドライバーである風間裕人は、確かにスカラシップでアンダー・フォーミュラを闘っては来たものの、所詮はスポンサーの電脳が連れて来た芸能事務所所属のタレント・レーサー。が、アイドル風のルックスを持つ風間の起用を強烈にプッシュした当のスポンサーが降りるのであれば、当然風間自身がこのチームにいる理由もなくなる。大椋が風間の携帯を鳴らすが、もちろん出るわけはない。今頃はニースの空港で出国手続きを行っているだろう。<br />「なんて勝手な！」<br />「ハッハッハ。行動だけはいっちょまえと言うか、流石スター、と言う振る舞いだな。...まあ、とにかく緊急ミーティングだ。大椋、招集をかけてくれ」<br />「解りました」<br />大椋が部屋を出ると、時折車のクラクションが聞こえて来る以外は、壁にかけられた時計の音しか聞こえない静寂が鈴石の部屋を包んだ。まさに「嵐の前の静けさ」だった。<br /><br />水曜夜のモナコ、繁華街からやや外れた場所に位置するホテルの一室にＴＳＪ／チーム・サムライ・ジャパンのトップが集結した。<br />中央にチーム・オーナーの林田勝、脇にテクニカル・ディレクターの由里拓夫とレース・ディレクターの桜田繁敏。エンジニア畑の津田哲治（チーフ）、カイル担当メカの渡辺清治、風間担当の木元武雄らも狭いソファに並び、スポーティング・ディレクターの鈴石と広報の大椋が部屋中の静寂を受けて立っている。ただひとり、エース・ドライバーのジョナサン・カイルは明らかに苛立ち、通訳にドイツ語でまくしたてていた。<br />「遅れてすまない。始めてくれ」<br />ドアが開くと同時に場違いな笑顔で全員を見渡し、チーム代表の星田一俊が部屋に入って来た。大椋が口を開く。<br />「え～、では早速本題に入ります。つい先ほど、我々のメイン・スポンサーである株式会社電脳の掘川唯文社長から直接鈴石さんに電話がありまして、最終的には今日付けで正式にＴＳＪとの契約を破棄する、と言われました。で、どうやらその話は風間の事務所にも行ったらしく、ウチのアシスタントに『もう日本に帰る』と言い残して風間が空港に向った、との一報がありました。現状、風間の行方は解りません。今解っているのはそんなところです」<br />現場ではひとりを除いて誰も驚かず、苦笑いにも近い空気が部屋を包んでいた。ただひとり激高しているのはカイルだった。<br />「ヘイ、ホシダサン！、このチームは一体どうなってるんだ？。俺はもう１０年Ｆ１で走っているが、こんな契約不履行は聞いたことがないぜ。どうしてくれるんだい！」<br />かつてはフォーミュラ・ニッポンでコース上で争った仲でもあるドイツ人ドライバーのカイルと「日本一速い男」の称号を持つカリスマ、星田の間には、良い意味でも悪い意味でも本音のぶつけ合いが日常であった。<br />「俺がドイツＦ３チャンピオンになった時のチームでも、もうちょっと機能していたぜ。いや別に、このチームが駄目だと言ってるんじゃない。ただ、もうちょっとやり方があるだろう、ってことさ」<br />「解ってるよ、ジョナサン。実際、チームの全員がこんな筈じゃないって思ってる。ただ...」<br />「ただ、何なんだ？」<br />「うむ...全員聞いてくれ」<br />星田が持っていた上着を壁際に立っていたアシスタントに向けて放り投げ、時計をチラッと見てからゆっくり話し始めた。<br />「...ホンダさんもトヨタさんも見切ったＦ１に、今更ながら俺達は食いついた。バジェット・キャップ案ってヤツがなきゃ、俺達は今ここにいなかっただろう。ただ、それは日本のマスコミでも散々言われて来たようにまさに時代遅れで、経済情勢だのエコロジーだのって意味じゃ、この御時世にＦ１チーム結成、なんてのはとんでもなく時代錯誤だったのかも知れない。だが、今ここに集まってるのは、それしか出来ない不器用な連中ばかりだ。林田さんは昔ながらの頑固一徹、由里さんはデザイン馬鹿、桜田や鈴石は一度失敗してるクセに諦め切れず、津田や木元もレースが出来なきゃ会社ヤメる！ってクチだ」<br />「おいおい、随分好き勝手に言ってくれるぜ！。相変わらず自分の価値観が世界共通だと思ってやがる。そう言うところは昔から変わらねえな」<br />林田が上目遣いで星田に突っ込みを入れ、重苦しかった部屋の空気が一気に和んだ。流石だった。<br />「...そして、俺達は多分ギリギリだったか、または本当は間に合わなかったクチだ。少なくとも、企業と言うレベルでモーター・スポーツ最高峰の夢を語ることが、もはやタブーの時代に突入していたのは、皆の知っての通りだ」<br />再び場が静まり返った。若いメカニックの渡辺は、既に悔し涙に鼻をすすっていた。<br />「だからこそ、俺達はチーム・サムライ・ジャパンなんだ。ひたすらストイックに、例え不利な状況であっても突き進む。誰もやらないんなら、俺達がやる。そうやって集まったのが俺達なんだ。その最後のチャンスを与えられ、こうして挑戦出来ただけでも、俺は凄いことだったと思うんだ」<br />鈴石は眼を閉じたまま回想する。<br />「俺が２０年前に鈴鹿で表彰台に乗った時は、何十万人って人が一緒に夢を見てくれて、そしてたくさんの人が感動してくれた。自分もそんな風になりたい、ってね。でも自分は世界チャンピオンになるつもりだったから、３位なんてまだまだ夢の途中だったんだけどね」<br />「掴めないから夢だし、叶わないから追いかけるのさ」<br />今度は林田が太い声で割り込む。<br />「子供の頃に漠然と想い描いた景色とか、未来とか、クルマもそうだ。理想は永遠に手に入らない。だから、俺達は追い求め続ける。そう言う意味じゃ、ホンダだのトヨタだのが広報戦略として何をやっても、俺には関係ない。俺は俺、俺の夢は俺のものだからな。だいたい、夢なんてのは叶っちゃったら面白くねえだろ？」<br />黙って林田の話を聞いていた星田は眼を開き、今度はスタッフ全員を見渡しながら、やや強い口調で続けた。<br />「きっと、子供は家へ帰る時間が来た、ってことさ。もちろん、ウチへ帰って晩メシ食って、テレビ見て風呂入って...また布団に入りゃ夢の続きを見るだろうし、明日起きたら探しに行こうとするだろう。ただ、今はいっぺんウチに帰って母ちゃんを安心させなきゃいかん」<br />一層深刻な表情となった全員を前に、星田は一呼吸置き、こう続けた。<br />「皆、ご苦労だった。俺達の夢は一旦お休みだ。ＴＳＪは、第６戦モナコＧＰを最後にＦ１世界選手権から撤退する」<br />一瞬の静寂の後、林田の拍手をきっかけに、部屋中が歓声に包まれた。<br />「皆、お疲れ！ありがとう！！」<br />涙ぐむ者、笑う者、天井を見上げる者...サムライ達は笑顔の裏で自らの運命を呪い、やり場のない感情／違和感と闘っていた。<br /><br />恐らくニースの空港で風間が待ち構えていた報道陣にブチまけたのだろう、ＴＳＪの面々が泊まっているホテルがレース・メディアに取り囲まれるのに時間はかからなかった。記者会見もクソもなく、部屋のドアの前で鈴石と大椋がマイクとフラッシュに囲まれた。<br />「ミスター・スズイシ、チームの未来は？」<br />「皆の想像している通りだよ」<br />「今回で撤退？、それともこのまま帰国ですか？」<br />「モナコＧＰには出るよ。ただし、もしかしたらジョナサンだけかも知れないがね」<br />「ユウトは解雇？、それとも...」<br />「知らない。自分で勝手に帰っちゃったんだよ」<br />「鈴石さん、駄目ですよ、そんなこと言っちゃ！」<br />大椋が焦って鈴石を制する。だが鈴石は笑っていた。<br />「もうかまわんよ。逆に、何を言われても良い覚悟がなきゃ、アイツだって勝手に帰りゃせんだろう」<br />「まったくもう...」<br /><br />同じ頃、ニース国際空港では風間がメディアに感情をブチまけていた。<br />「全く、冗談じゃないですよ。こっちは世界を舞台に闘うＦ１ドライバーだってのに、ウチのチームと来たら、満足に予選を通過出来るマシンも作れない。そりゃスポンサーだってファンだって、嫌になるってもんでしょう？」<br />大きなスーツ・ケースに長い足をかけ、サングラスの奥でキョロキョロとカメラを意識しながら風間が大袈裟な手振りを交えて怒鳴り散らす。<br />「でもユウト、チーム・メイトは２度、予選を突破しています。貴方のベスト・タイムはいつもカイル氏より大幅に遅れていましたよね？。御自分のパフォーマンスにも問題があるとは考えないのですか？」<br />ヨーロッパのメディアは単刀直入だ。チッと舌打ちし、マネージャーの方を一瞬振り返りながら、イライラした時のクセである頭を掻く仕草をして風間が返す。<br />「そりゃ、僕はまだＦ１の一年生だし、相手はＦ１で３勝を挙げているベテランなんだから。それに、きっとチームは優先的に、カイルの方に最新のパーツを使わせたりするんだ。それでジャッジされても困るんだよねえ」<br />この手のやりとりには慣れているレース・メディアの面々からはやや失笑が漏れ、風間は自らの首を絞めることとなってしまっていた。<br />「ユウト、これからどうされるんですか？」<br />「取りあえず日本に帰って、それから訴訟の準備だ。これは僕のレース人生の汚点になるような事件だからね！。そして、まずは人気のあるＧＴ選手権にでも出るさ。そっちの方がよっぽど皆の注目を浴びるからね。それにモデルの仕事もいくつか予定が入っているから、相変わらず忙しい毎日さ」<br />風間の目線の先には、既に日本へ帰ってからの日々しか映っていないようだった。<br /><br />その頃日本では、既にインターネットを中心にＴＳＪのＦ１撤退が大きく報じられていた。ＦＩＡのバジェット・キャップ案により誕生した純日本製Ｆ１チーム、ＴＳＪ（チーム・サムライ・ジャパン）は、成績低迷／露出効果不足を理由にメイン・スポンサーが契約を破棄し、日本人ドライバーの風間裕人はレースをボイコット、チームは第６戦モナコＧＰを最後に撤退を余儀なくされることとなった。そのニュースは決して夢破れた悲壮感が漂うことはなく、景気を見据えた上でクールに分析された結果としてしか扱われなかった。<br /><br />「かっこわるい。だったら初めからやんなきゃ良かったのに」<br />「だいたいもうＦ１って時代じゃないよね。バブルじゃあるまいし」<br />「年寄りが集まってみっともない。林田に由里に星田に鈴石...まるで同窓会」<br />「自動車メーカーでもないのにＦ１なんか出来ないってこと。甘く見過ぎ」<br />「日本にＦ１チームなんてあったんだ。今知った（笑）」<br />「これ以上風間クンに恥をかかせないでください」<br /><br />「...どうでも良いけど、皆言いたい放題だな。体制発表の時は夢のオールスターだのなんだの言ってたくせに」<br />「寂しいですね。世間ってこんなものなのかな...」<br />大股開きでソファに腰掛け、携帯電話でチームのツィッターを見ながら鈴石と大椋が嘆いた。時代は残酷に、そして無責任に、最新情報と本音を羅列して当事者にぶつけて来る。<br />「ま、こんなにマスコミに騒がれるのも一昨年の体制発表以来のことだ。結局２０１０年は経済的な理由で参戦出来ず、バーニーの計らいで１年待って貰ってたわけで、そう言う意味じゃ、久しぶりにメディアを賑わせてんじゃないの」<br />「それが良いニュースだったら良かったんですけどね...」<br />「ハッハッハ。そりゃそうだ」<br />汗をかきつつ、報道陣からどうにか逃れて来た星田が部屋に入って来た。<br />「ふう...やれやれ。こんなに取り囲まれるのはいつ以来だったかな」<br />「ハッハッハ。丁度今大椋とそんな話をしてたんですよ。ただ良いニュースじゃないのが残念だ、ってね」<br />「星田さん、山本左近のマネージメントから連絡が入っています」<br />「ん？、左近君から？」<br />「はい、もしも風間が乗らないのであれば、こっちはいつでも準備は出来ています、と。あと、ペドロ・デ・ラ・ロサと、ルーカス・ディグラッシからも。それから...」<br />「解った。ありがとう...いや、ありがたいと言うべきか、悩ましいところだな...」<br />「現実的に、明後日のフリー走行までにセカンド・ドライバーを決めるのか、それとも風間をなだめすかして呼び戻すのか、決断しないとなりません」<br />「解ってる。ただ、おそらく風間は今更帰って来んだろうし、林田さんがそれを許すとも思えん。とは言え、このプロジェクトは元々風間ありきのチームだ。まずは風間と話すことから始める必要がある」<br />「もう、いっそ星田さんが乗っちゃえば？。日本一速い男・復活！ってね（笑）」<br />「馬鹿言うなよ。だったら鈴石が乗れ。Ｆ１表彰台経験者だろ？」<br />「ふたりとも、真面目に考えて下さいよ！」<br />「悪い悪い。...うん、ちょっと林田さんと話して来るよ」<br />背中越しに手を振りながら、星田は部屋を出た。歴史と伝統のモナコＧＰを目前に、星田にも誰にも、起死回生のアイデアなどなかった。<br /><br /><br />次回に続く。<br /><br />※この物語はフィクションです。</b></font>]]>
        
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    <title>彼らが恐れ、闘うもの</title>
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    <published>2011-02-17T10:52:50Z</published>
    <updated>2011-02-18T04:35:33Z</updated>

    <summary>開幕を目前に控え、ようやく合同テストがスタートしたと思った矢先、恐ろしいニュース...</summary>
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        <name>加瀬竜哉</name>
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        <![CDATA[<font color="#3e6b3a">開幕を目前に控え、ようやく合同テストがスタートしたと思った矢先、<a href="http://www.kasetatsuya.com/cgi/uk/topics.cgi?no=42" target="_blank"><font color="#ff00ff">恐ろしいニュース</font></a>が飛び込んで来た。バレンシア・テストでトップ・タイムを叩き出していたロータス・ルノーGPのドライバー、ロベルト・クビサがイタリアで開催されていたラリーのレース中にガードレールにクラッシュ、右手、腕、足などを骨折し、特に酷かった右腕は一時切断も検討されるほどだったと言う。幸いにも7時間に及ぶ大手術の末に"最悪の事態～切断～"は免れたが、当然F1開幕に間に合うわけもなく、復帰には相当な時間がかかると見られている。いや、極端に言えばこの事故がクビサのレーシング・ドライバー生命に関わる、と言っても過言ではない状況である。多くの関係者が心配する中、チームはやむなく代役ドライバーの選考に入り、かつての僚友であるベテランの<a href="http://www.kasetatsuya.com/cgi/uk/topics.cgi?no=60" target="_blank"><font color="#ff00ff">ニック・ハイドフェルド</font></a>がクビサに代わってロータス・ルノーGPをドライブすることが決定、事実上クビサの2011年シーズンは終ってしまったのである。<br />.....両手／両足が全て異なる作業を必要とするカー・レースと言う分野のレギュレーション、特にF1のような特殊なカテゴリーでは、こういったケースは致命的となることが多い。故に、ドライバーはオフ・シーズンも含めて充分な健康管理が必要とされ、例えば<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/06/post-29.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェラーリ</font></a>などのトップ・チームはもしもの怪我に備え、ドライバーにスキーなどの一部スポーツを禁止したりするほどである。今回のクビサはF1オフ・シーズンを利用してのラリー参戦だったが、これがルノーでなくフェラーリなら当然ラリー禁止。<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/iceman.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">キミ・ライコネン</font></a>などはそれが嫌でF1から出て行った、と言われるほど。しかし、こうして実際に事故が起きてしまった以上、ルノー側がクビサのラリー出場を認めていたこと自体が問題視されてしまうのはやむを得ない。<br /><br />今回の事故に関しての報道で、"ナニーニのケースとの比較"という記事を良く見かけると思う。しかしその"ナニーニ"に関してはあまり詳しく紹介されていないので、今ひとつ良く解らないという方も多いだろう。先に結果から言うとナニーニと言うのは、かつて右腕切断と言う大事故に遭いながらも、懸命のリハビリでレースに復帰した元F1ドライバー、アレッサンドロ・ナニーニのことなのだが、今回のクビサの事故を受け、重大事故、特に手足の骨折や切断、という極限状況から不屈の精神で復活を目指したドライバー、という過去のケースをいくつか振り返ってみようと思う。悪夢のような恐ろしい体験から地獄のようなリハビリを乗り越え、いったい彼らはどうやって帰還したのか。そこにはレーシングに取り憑かれた者だけが知る究極の欲望と、周囲の献身的な協力が存在する。<br /><br />尚、今回のコラムは少々ヘヴィなテーマ／内容なので、興味本位ではなく、心して読んで頂きたい。<br /><br />さて、まずはその"ナニーニ"の紹介から。アレッサンドロ・ナニーニは'59年7月7日、イタリア出身。モトクロスでレースに目覚め、4輪に転向。'81年フォーミュラ・フィアット・イタリア王者となり、'82年にF2へステップ・アップ。所属するイタリアのレーシング・チーム、ミナルディがF1に参戦することとなり、ナニーニ自身は'86年に同チームからF1デビュー。非力なマシンで印象的なパフォーマンスを見せ、'88年に<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_110.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ベネトン</font></a>に抜擢。'89年第15戦日本GP、あの有名な"<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_112.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セナ・プロ鈴鹿シケイン接触</font></a>"のレースで<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_21.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アイルトン・セナ</font></a>の失格により、繰り上がり初優勝。翌'90年も常にトップ争いに加わり、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_42.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジャン・アレジ</font></a>とフェラーリのシートを争うほどの若手トップ・ドライバーとなった。<br />.....初勝利から丁度1年、'90年第15戦日本GPを目前に控えた10月12日、悲劇は起きた。ナニーニは友人と自家用ヘリコプターに乗っていたが、自宅敷地内で着陸に失敗し、墜落。その際ナニーニは機外に投げ出され、ヘリコプターのローターで右腕を切断。その際、妻が切断された右腕を氷水で冷やして保管し、病院に運ばれて縫合手術が行われた。手術は成功し、ナニーニは復帰目指して懸命のリハビリを開始。数度に渡る手術を受け、苦痛と闘いながら握力の回復に努める日々を送る。そして事故から2年半後の'92年3月、ナニーニは遂にDTM（ドイツ・ツーリング・カー選手権）でアルファロメオに乗り、レース復帰を果たす。その後BTCC（イギリス・ツーリング・カー選手権）にも参戦し、'97年に正式にレーシング・ドライバーを引退した。<br />.....日本でも人気が高かったナニーニの事故はファンにとって衝撃だった。イタリアのTVカメラが捉えた、搬送中に妻が半狂乱になりながら「撮らないで！」と叫んでいた姿は忘れられない。しかし、パドックでも陽気な性格で知られるナニーニは、救急車で搬送中にも「僕はF1ドライバーだからもっと早く走れるよ。運転代わろうか？」とジョークを飛ばしたと言う。そして事故直後の日本GPで、ベネトンはエースの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_37.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ネルソン・ピケ</font></a>と、ナニーニの代役ロベルト・モレノが奇蹟の1-2フィニッシュ。モレノは「この2位をサンドロ（ナニーニ）に捧げる」と言い、ナニーニもまた「僕が出ていれば勝てたのに！」と笑った。ナニーニは事故後も、決して明るさを失わなかった。TVインタビューにも率先して応じ、「何が一番不自由かって、自分で慰められないことだよ！（笑）」と笑わせた。右手にはクッション・ボールを握り、ゆっくりゆっくり動かしていたのが印象的だった。そして'92年、ナニーニは左手だけでシフト出来る仕様に改造されたフェラーリのF1マシンを駆る機会を得た。しかしその際、右手にかかる負荷をあらためて実感し、F1ドライバーとしての復帰を諦めたのだと言う。<br />ナニーニの切断された右腕は、周囲の適切な処置により縫合に成功した。そして彼はレースに帰って来た。が、F1でレースすることはもはや出来なかった。現在は女性に人気の"<a href="http://www.grupponannini.it/" target="_blank"><font color="#ff00ff">カフェ・ナニーニ</font></a>"を経営するビジネス・マンである。<br /><br />.....ナニーニに良く似たケースとして、オールド・ファンの記憶に残っているのは<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_11.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ディディエ・ピローニ</font></a>だろう。こちらはシーズン・オフではなくレース中の事故、そしてナニーニが腕だったのに対してピローニの場合は足だったが、彼もまた大クラッシュから再びレーサーとして復帰を目指し、そしてF1ではないにしろ、実際にレース現場へと帰って来た。が、"その後"に関してピローニはあまりにも悲惨な結末だった、と言わざるを得ない。<br /><br />ディディエ・ピローニは'52年3月26日生まれのフランス人。母国の大企業"エルフ"の強力なバック・アップを受け、'78年にティレルからF1デビュー。'80年に母国のF1チーム、リジェに乗って初勝利を飾り、翌年のフェラーリのシートを勝ち取った。チーム・メイトはカナダの新星、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_11.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジル・ヴィルヌーヴ</font></a>。ふたりは良きライバルとしてフェラーリの勝利に貢献するが、'82年第4戦サンマリノGPレース終盤、1位ヴィルヌーヴ、2位ピローニの順で走行中に、フェラーリのピットから「順位を固定せよ」との"<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_26.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">チーム・オーダー</font></a>"が発令。しかしピローニはこれを破って無抵抗のヴィルヌーヴを抜き、勝利してしまう。つまり、チーム・オーダーを無視してしまったのである。これでふたりの信頼関係に亀裂が入り、翌第5戦ベルギーGP予選でふたりのポール・ポジション争いが白熱。"限界を超えた"ヴィルヌーヴが高速で他車に接触し、車外に投げ出されて死亡。ピローニはタイトル争いのトップに立ったが、同時に世界中の憎まれ役ともなってしまった。<br />迎えた第12戦ドイツGP、大雨の予選2日目。視界不良の中、ルノーの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_80.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アラン・プロスト</font></a>はタイム・アタックを諦めてスロー走行し、後方のデレック・デイリー（ウィリアムズ）に進路を譲る。後方からそのデイリーの加速を見たピローニは、何故か突然アクセルを踏み込み、水しぶきで何も見えない中、プロストのマシンに全速力で突っ込んでしまった。ルノーの右リア・タイヤに乗り上げたピローニのフェラーリは空を舞い、そして激しく地面に叩き付けられた。ピローニは両足の骨を粉々に砕く重傷を負い、マシンに閉じ込められた。しかもピローニはマシンの中で意識を失っておらず、救急隊員がその場での両足切断に関して協議する様子を全て聞いていたと言う。結局ピローニは切断は免れたが、両足の複雑骨折で長期入院となり、選手権から離脱した。<br />ピローニはこの事故後30回以上の手術に耐え、レース復帰へ向けて必死のリハビリを繰り返した。母国フランスのチームであるリジェ、AGS、ラルースなどがピローニのF1復帰のためにテスト・ドライブのチャンスを与えたが、最終的にF1に戻ることは出来なかった。結局ピローニは事故から5年後の'87年、"水上のF1"と言われるパワー・ボートでレースに復帰。しかし8月23日、イギリスのワイト島で行われたレースで大クラッシュを起こし、帰らぬ人となった。付近を巨大な石油タンカーが通った際に起きた大波に乗ってしまったのが事故の原因だった。<br />また、ピローニを巡っては自身が両足の怪我を負った同じ'82年、第8戦カナダGPのスタートでエンジン・ストールし、そこへ突っ込んで来たオゼッラのリカルド・パレッティが死亡した事故も含め、多くの"悲劇の主人公"として語られることが多い。実際、それほどの事故に遭いながらもレースへの夢捨て難く、そして最後はやはりレースで命を落とした。いったい何がピローニを駆り立てていたのか。その答はピローニ自身にしか解らない。<br /><br />.....もう何年も前のことになるが、車椅子から手だけでドライブ出来る特別仕様のNSXに乗り込み、ご機嫌で縁石を攻めながらサーキットを疾走するオヂサン、というホンダのTVCMを覚えておられる方も多いと思う。<br />彼の名はクレイ・レガッツォーニ。'39年9月5日、スイス出身のレガッツォーニは母国企業チソットをスポンサーに'70年にF2王者となり、同年フェラーリから鳴り物入りでF1デビュー。'74年にはブラジルの3度の世界王者、エマーソン・フィッティパルディとタイトル争いを繰り広げた。絶頂期を過ぎ、渋いベテラン・ドライバーとなった'80年、中堅チームのエンサインに移籍。第4戦アメリカ西GP、ロングビーチ市街地コースでのレース中、レガッツォーニのマシンはブレーキ・ペダルのトラブルに見舞われ、時速300kmで減速せずにコンクリート・ウォールにクラッシュ。それでもヘアピンが待ち受けるロング・ストレートでマシンの異変に気付いたレガッツォーニは、とっさの判断でギアを3速まで落とし、イグニッション・スイッチをオフ。更にリタイアして止まっていたマシンに一旦ぶつけ、クラッシュの衝撃を和らげようとした。しかし、それでも結局レガッツォーニの両足の骨は粉々に砕かれてしまっていた。12時間に及ぶ大手術の結果、一命は取り留めたが頸椎損傷で下半身不随となり、レース界から引退。その後は車椅子生活となりながら、TVのレース解説者として活躍した。が、そのレガッツォーニもまた'06年12月15日、イタリアの高速道路でトラックと激突して事故死。享年67歳。この時もレガッツォーニはクライスラー製の、ステアリング機能だけで運転出来る特別仕様のボイジャーに乗っていた。<br />あのCMで特に印象深かったのは、高速運転可能なマシンとサーキット走行の機会を与えられ、子供のように嬉しそうな表情を見せるレガッツォーニ自身と、空っぽの車椅子と共に心配そうに夫の走りを見守る妻の姿だった。最終的に車の事故で命を落とした夫を、いったい彼女はどう想っているのだろうか。「それが天命」とは、決して諦め切れない筈である。<br /><br />.....アレックス、いやアレッサンドロ・ザナルディの復活劇はレース界の奇蹟として有名である。同時に、ザナルディは現在進行形のレース魂の持ち主としても、多くの人々を勇気づけ続けるヒーロー、と言えるだろう。<br /><br />アレッサンドロ・ザナルディは'66年10月23日生まれのイタリア人。'88年にイタリア国内のF3選手権で注目され、'91年の国際F3000選手権ではタイトル争いを展開、新興F1チームの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_59.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジョーダン</font></a>から声がかかり、F1デビュー。しかし中堅チームを渡り歩いたザナルディはF1で目立った成績を残すことが出来ず、'94年にシート喪失。これを機にアメリカに新天地を求め、'96年からインディ・カー／CARTへと闘いの場を移す。アメリカでアレッサンドロ改め"アレックス"・ザナルディとなった彼は圧倒的な強さで'97、'98年の選手権を連覇。これを見たF1トップ・チームのウィリアムズから声がかかり、'99年に今度はF1へと復帰。しかしチームの低迷もあって、F1ではやはり思うような成績を残せず、'01年に再びCARTへと出戻ることになった。<br />'01年9月15日、CART第16戦の舞台、ドイツ・ラウジッツリンク・サーキット。トップを快走するザナルディは残り13周でピット・イン。作業を終えピット・ロードを走るザナルディは痛恨のスピン。そこへ運悪くアレックス・タグリアーニのマシンが突っ込み、ザナルディ車は大破。特にマシン前部は損傷が酷く、モノコックがまっぷたつに裂け、ザナルディの両足は膝から切断されてしまった。事故から2ヶ月後、退院したザナルディは記者会見で「まずは歩けるようにリハビリを行う。その後のレース活動についてはまだまだどうなるか解らないよ」と復帰へ向けて意欲を語った。<br />そして迎えた'03年5月11日、悪夢のような事故から1年8ヶ月。ラウジッツリンクには義足を装着したザナルディの姿があった。彼とチーム、そして観客達は、ザナルディの"失われた13周"を取り戻すためにそこにいた。この日、ザナルディのために両手だけでドライブ出来る特別仕様のCARTマシンが用意され、彼はあの日走れなかった残りの13周を走り切り、自らのフォーミュラ・カー・レーサーとしてのキャリアにケジメをつけたのである。ザナルディは多くの関係者とファンに感謝し、CARTマシンを降りた。<br />.....しかし、ザナルディはこれで終らなかった。その後彼は特別仕様のBMWを駆ってWTCC（世界ツーリング・カー選手権）に本格参戦、'05年第14戦では見事優勝を果たしたのである。そして'09年にレーシング・ドライバーとしては引退したが、現在はハンド・サイクルの選手として活躍し、2012年のロンドン・パラリンピック出場を目指している。これまでのザナルディの主な実績は'07年ニューヨーク・シティマラソン・ハンド・サイクル部門4位、'09年ローマ世界選手権15位（首位と僅か4.5秒差）、'10年ローマ・マラソン・ハンド・サイクル部門優勝.....この男のレースに懸ける情熱は半端じゃない。<br /><br />.....次に紹介するのは、長きF1の歴史に於いて、記録にも記憶にもあまり残っていない、ひとりの無名ドライバーのケースである。しかし、"懲りない"という部分では相当に深く、更に運も良かった男の、見方を変えれば羨ましいレベルの話だ。<br /><br />イアン・アシュレーは'47年10月26日生まれのイギリス人。豊富な資金を元にフォーミュラ5000を経て'74年にプライベーターによるスポット参戦という形でF1デビュー。4年目の'77年シーズン、アシュレーは後半戦の第12戦オーストリアGPからヘスケスで参戦。第16戦カナダGP予選、ここまで予選落ちの常連になりつつあったアシュレーは焦り、ジャック・ラフィーのリジェを無理にオーバー・テイクしようとして、ストレート・エンドからアウト側のダートへ飛び出してしまい、マシンは激しく横転。衝撃でコックピット部が外れ、アシュレーはバラバラになったマシンの下敷きになってしまった。この際、モノコック前方が激しく損傷し、アシュレーの両足は折れ、足首から先があり得ない方向を向いていた。救出には時間がかかり、アシュレー本人は激痛で何度も失神を繰り返したが、どうにか両足切断は免れた。しかしこの事故でアシュレーのF1ドライバーとしてのキャリアは終わりを告げた。が、スピードの魅力に取り憑かれていたアシュレーは、リハビリ後、なんとアメリカでジェット機のパイロットへと転身。その後もBTCC（イギリス・ツーリング・カー選手権）やサイド・カー・レースなどにも出場し、60歳を過ぎた今も、細々ながら精力的にレース活動を行っているのである。<br />アシュレーは'70年代に良く見られた資金持ち込みプライベーター、所謂<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2011/01/post-39.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ペイ・ドライバー</font></a>のひとりである。悪い言い方をすれば、F1で活躍するトップ・ドライバー達と競い合うには、技術的に未熟な部分が大事故に繋がったと、考えられなくもない。しかも当時は現在のような安全性からは程遠く、一歩間違えば命の危険に晒される時代である。それでも彼らがチャレンジをやめなかったのは、レーシングが"危険と隣り合わせ"という理不尽な魅力を持つカテゴリーであることが関係しているという事実を、少なくとも当時、決して否定することは出来なかったのだ。<br /><br />昨年最終戦までタイトル争いを繰り広げた<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-25.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マーク・ウェバー</font></a>は、シーズン開幕前と終盤の2度に渡って趣味のマウンテン・バイク中の事故で怪我をし、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-24.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">レッドブル</font></a>のクリスチャン・ホーナーは「マークは自転車をやめるべきだ」と激怒した。今回のクビサのケースでも、見方によってはオフ・シーズンにラリー出場という"危険な行為"を行ったことにより、自身とそれを許可したチームに対する非難が続出した。クビサは事故後「テスト規制の厳しいF1では、オフ・シーズンのラリー出場が運転の感覚を向上させるのに有効であると」、自らのラリー参加を正当化する発言をした。しかし、その意見に対し「あまりにも理性に欠けている」と発言したのは、かつて瀕死の重傷を負いながらも奇蹟の復活を遂げた帝王、ニキ・ラウダである。<br /><br />"スーパー・ラット"ことニキ・ラウダは'70～'80年代を代表するF1ドライバーであり、3度の世界王者である。'49年2月22日、オーストリア生まれのラウダは'71年にマーチでF1デビューし、'75年にはフェラーリで初の王座獲得。<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_65.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">'76年第10戦ドイツGP</font></a>、山の中を走る旧・ニュルブルクリンク・サーキット、1周22.8kmというロング・コースの、観客もマーシャルもあまりいない高速コーナーで事故は起きた。ラウダのフェラーリは小雨の中、リア・サスペンションのトラブルから突如スライドしてフェンスに激突。マシンは一瞬にして炎に包まれた。そして、現在では考えられないような低い安全性の中、ラウダは燃え盛るマシンの中で意識を失っていた。救急車も消化器を持ったマーシャルも付近にはおらず、数十人の観客達は、燃え盛るフェラーリをただ呆然と見つめることしか出来なかった。誰もが絶望感に苛まれ、立ち尽くすだけだった。<br />.....そして、そのラウダを炎の中から救出したのは、この事故を見て現場でマシンを降りた、後続の4人のドライバー仲間だった。800度の炎の中に1分以上閉じ込められていたラウダは、重度の火傷と出血多量でハイデルベルグの病院へと運ばれた。4日間意識不明の状態が続き、病床には牧師が訪れ、マスコミには既にラウダ死亡説が流れていた。<br />.....6週間後、第13戦イタリアGPの舞台、モンツァ・サーキットには、焼けただれた顔面を隠すことなく、チャンピオン争いのために帰って来たラウダの姿があった。そしてラウダはこのあと、更に2度世界王者となるのである。<br />死の淵から生還したヒーローとして、ラウダの復活劇は世界的にも有名だが、この事故を境に、ラウダはサーキットとマシンの安全性に対して自身の意見を唱えるようにもなった。事実、事故に遭った'76年シーズンの最終戦、富士スピードウェイでの<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/06/post-5.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">F1GPイン・ジャパン</font></a>は豪雨に見舞われ、ラウダは選手権トップにいながら「危険過ぎる」と自主的にリタイアし、1点差で王座を逃している。が、これこそが王者の論理そのものであり、ラウダの"愛弟子"とも言うべきプロストも、ピローニとの事故以来、雨のレースを極端に嫌っている。そして、この頃から徐々に、そうあまりにもゆっくりと、レースとサーキットの"安全性"というものがようやく人々の話題になり始める。まだ、そんな時代の出来事なのである。<br /><br />.....雨の富士、事故、フェラーリ、そして復活と言えば、我々日本人には忘れられない事故、忘れられないドライバーがいる。'59年11月6日生まれ、日本で最もフェラーリが似合う男、"日本一のフェラーリ遣い"こと、<a href="http://www.keep-on-racing.com/" target="_blank"><font color="#ff00ff">太田哲也</font></a>である。<br /><br />'98年5月3日、全日本GT選手権第2戦、大雨の富士スピードウェイ。結論から言えば、レースは中止されるべきだった。それほどの豪雨の中、ローリング・スタートはペース・カーの突然の加速により、水しぶきで何も見えない視界ゼロの参加ドライバー達が誤ってレース・スタートだと思い込む事態を招いた。砂子智彦のポルシェがクラッシュ、そこへ太田のフェラーリが突っ込む。太田のF355GTは爆発し、炎上しながらコースを横断して停止した。太田は燃え盛るマシンの中でピクリとも動かなかった。<br />.....誰も太田を助けに来なかった。砂子は自力でポルシェから脱出（全身打撲、右足粉砕骨折、解放骨折）した。が、太田は出て来ない。RX7を止めた山路慎一が駆けつけ、太田に声をかけながら消化器を噴射、フェラーリはようやく鎮火した。ここでようやくマーシャルが駆けつけ、太田は炎に90秒以上包まれて車外に出された。が、観客の撮ったビデオには、およそ適切とは言えない対処が記録されていた。山路はドアの閉まったままの車内で無線で喋るだけのオフィシャルに激怒し、レスキュー・カーを蹴った。すると、別のオフィシャルが山路に説教を始め「このままじゃ済まさない」と言った。その間、太田は車外で放っておかれていたのである。結局太田は重度熱傷で長期入院となった。<br />.....この事故に関しては様々な意見が交わされ、裁判沙汰となり、既に和解が成立していることを踏まえた上で、筆者なりの価値観／目線で書かせて頂いた。まず、誰が悪いのかを問わなくてはいけない事態そのものが、レース運営側の失敗と対処の不備を物語っている。筆者は現場にいたわけではないし、残された証拠を元に書くしかないが、多くの事柄について、運営側が責任逃れとしか思えない言動を行っていた疑いは、筆者の今日の日本のサーキット／レース運営の見方に大きく影響を与えているのは事実であることを付け加えておく。尚、この事故に関しては'01年に太田自身による"クラッシュ＿絶望を希望に変える瞬間"という著書として出版され、'03年には映画化もされているので、機会があれば是非御覧になって頂きたい。<br />その'03年、事故から5年を経て、太田はアルファロメオのワン・メイク・レース"アルファチャレンジ・ユーロ・カップ"でレースに復帰した。が、熱傷の後遺症で右手足に後遺症が残ったために引退を余儀なくされ、現在はフェラーリなどのチューニング・パーツの開発を行う"TEZZO"代表、更にモータージャーナリストとしても活動しながら、アマチュア・レーサーのための"<a href="http://www.tezzo.jp/tezzo-racers-club-page-top.htm" target="_blank"><font color="#ff00ff">TEZZO RACERS CLUB</font></a>"、更に苦悩する人々を支援する"<a href="http://www.keep-on-racing.com/npo/" target="_blank"><font color="#ff00ff">NPO KEEP ON RACING</font></a>"を主宰し、精力的に講演活動などを行っている。.....なんと言う強さだろうか。多くを失い、多くを諦めなければならなかった太田自身が、未だ我々に"勇気"をくれる。<br /><br />.....筆者の記憶にこんな話が残っている。1991年第15戦、日本GP。ラルースのエリック・ベルナールは予選中、鈴鹿のヘアピン立ち上がりでスピンを喫し、コンクリート・ウォールに激突。衝撃でベルナールは左足を骨折し、折れたペダルに挟まれて身動きが取れなくなっていた。チーム・メイトだった<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_78.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">鈴木亜久里</font></a>が事故現場でマシンを降り、救出中のベルナールを励ましていた。その際、自身の怪我の状況が解らないベルナールは「お願いだから足だけは切らないでくれ。足切られるくらいなら死んだ方がマシだ」と泣き叫んでいた。亜久里はベルナールに「折れてるだけだから大丈夫だよ。またレース出来るから」と声をかけていたと言う。<br />これは、常に危険と隣り合わせのレーシング・ドライバー同士だからこその、リアルな会話である。もしもこれが一般人であれば、少なくとも「足切るなら死んだ方が良い」とは思えない。それほどまでに彼らは手足の切断という"最悪の事態"を恐れ、その恐怖と闘っている。そして亜久里もそれを解っている仲間／同業者だからこそ、その励まし方を知っていた。彼らにとって「またレース出来るから」という言葉は、何よりの励ましなのだろう。ちなみにその後ベルナールは無事F1に復帰し、'94年第9戦ドイツGPでは3位表彰台を獲得している。<br /><br />最後にもうひとつだけ、紹介しておこう。手足の切断、という分野とは違ってしまうが、ある大事故がきっかけで、確実に大バケしたひとりの天才レーサーの話だ。<br /><br />'68年9月28日、フィンランド出身の<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_52.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミカ・ハッキネン</font></a>。彼は6歳の頃からモーター付き自転車でレースに出場するようになり、'90年にはイギリスF3を制覇。伝統のマカオF3では<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミハエル・シューマッハー</font></a>、エディ・アーバイン、ミカ・サロらと激闘を繰り広げ、ファイナル・ラップでトップのシューマッハーのリアにクラッシュして無念のリタイア。既にレース1を制しており、2位でも総合優勝確実だったのにも関わらず、レーサーとしての本能だけでレースをフイにし、泣きながらガードレールを殴り続ける姿は世界中にミカの名を知らしめることとなった。'91年に<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_101.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ロータス</font></a>からF1デビュー、'93年に名門<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/m.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マクラーレン</font></a>に抜擢。しかし、ホンダを失ったマクラーレンは長い低迷期に入ってしまっていた。<br />'95年第16戦オーストラリアGP予選初日。ハッキネンのマシンのリア・タイヤが突然激しくバースト、マシンは眼の前の高速コーナーのバリアに真っすぐ突っ込んでしまった。ハッキネンはステアリングに頭部を強打し、意識不明の状態で急遽病院に運ばれた。<br />意識が回復した時、傍らにロン・デニスは開口一番「ミカ、すまなかった。コース上でタイヤが拾った異物が徐々にタイヤのエア漏れに繋がっていたのを、我々が気付かなかったんだ。だから君のせいじゃない」と謝った。するとハッキネンはなんと「なんだ、僕のミスじゃなかったのか。ならOK、大丈夫だよ」と答えたのである。<br />翌'96年の開幕戦は前年の最終戦、奇しくもF1カレンダーの妙で事故が起きた同じオーストラリア・アデレイド。ハッキネンは奇蹟の復帰を遂げ、何事もなかったかのように予選5番手のタイムを叩き出す。スタッフは大喜びし、ピットへと戻って来たハッキネンを拍手で迎えた。ところが、ハッキネンは大喜びのチームに対し、「おいおい、5位だろ？、ポール・ポジションでもないのに何を騒いでるんだ。こっちは勝つために走ってるんだぜ！」<br />デニスは「あの時ミカは変わった」と感じたそうである。そしてハッキネンは翌年初優勝、最強メルセデス・ベンツ・エンジンを武器に'98、'99年の選手権を連覇する。<br />.....もしもあの事故がなかったら.....いや、その答は解らない。しかし、こうしたきっかけでドライバー個人のドライビング・スタイルや、チーム体制などに変化が起きる可能性はあり、ハッキネンの事故はその両方に影響を与えた、と言えるだろう。<br /><br />.....この原稿を書いている時点では、サンタコロナ病院に入院中のクビサが最後の手術を終え、無事成功したという<a href="http://www.kasetatsuya.com/cgi/uk/topics.cgi?no=61" target="_blank"><font color="#ff00ff">ニュース</font></a>が最新である。病院関係者は口を揃えて「強靭なレーシング・ドライバーは精神力と回復力も強く、復帰も早い」と言う。しかし、一体いつクビサが再びF1のグリッドに帰って来られるかのは解らない。が、自身も、チームも、ファンも、それを願い、祈り、待とうじゃないか。頑張れ、ロベルト！。<br /><br /><br /><i>「自分が愛するモーター・スポーツが、これを機にもっと安全になり、発展することを期待します」'03年10月29日／太田哲也</i><br /><br />////////////////////////////////////////////////<br />"バリアの外側のマニア"加瀬竜哉が最新のF1ニュースをピックアップし、そのニュースの背景を持ち前のマニアックな視点から掘り下げ、更により解りやすく解説し、検証する。<br /><a href="http://www.kasetatsuya.com/cgi/uk/topics.cgi" target="_blank"><font color="#ff00ff">no race, no life formula1 topics</font></a></font>]]>
        
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    <title>ペイ・ドライバー再来？</title>
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    <published>2011-01-28T05:56:18Z</published>
    <updated>2011-01-28T05:55:52Z</updated>

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        <![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">開幕が待ちどおしい2011年F1世界選手権。もうこっちも慣れたモンではあるが、この期に及んでいくつかのチームが未だドライバー・ライン・アップを未決のままでいる。が、当然水面下で多くの浪人ドライバー達がチームと契約に関して細かいやりとりの真っ最中であり、そこには相当巨額なお金が蠢いている、と考えて良い筈である。では、準備不足というリスクもある筈なのにチーム側がなかなか正式発表しないのはいったい何故なのか。<br />以前、ここスクイチで"<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/07/post-33.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">お金のハナシ。</font></a>"と題し、F1チームの運営資金からドライバーのギャランティに至るディープな話題を扱ったことがあったが、これがおかげさまでなかなか好評、今更ながらこのモータースポーツの頂点であるジャンルに於けるお金の位置付け、そしてスポーツとは、選手（ドライバー）とはなんたるか、などの議題にも突っ込んだのが功を奏したのかも知れない。ともあれ、"実力のみでは走れず、お金だけでは勝てない"というこのジャンルの難しさを少しでもビギナーの皆さんに伝えることが出来たなら幸い。<br />さて、このところ目一杯F1チームのシート争奪戦を難しくしちゃった感のある話題に、インド人初のF1ドライバー、ナレイン・カーティケヤンがHRT（ヒスパニア・レーシング）から5年振りにF1復帰、契約スポンサー料はチームの年間運営資金の1/3と言われる1千万ユーロ（約11億円！）を持ち込んだ、と言うニュースがある。また例によって金に細かい<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/06/post-30.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">コリン・コレス</font></a>のこと、もしもカーティケヤン・サイドの支払いがちょっとでも滞ったら、いったい誰が代わりに出て来るか解ったモンじゃない。<br />また、ウィリアムズが'10年のゴールデン・ルーキーのニコ・ヒュルケンベルグを泣く泣く捨て、巨額のベネズエラ・マネーを持ったパストール・マルドナドを起用せざるを得なかったのもF1の現状を良く表している。かの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_28.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フランク・ウィリアムズ</font></a>が、金にさえ困ってなきゃ絶対にあんな掘り出しモノ（ニコ）を放出するワケがない。なんたってあの中団グループのウィリアムズ・コスワースで第18戦ブラジルGP予選ポール・ポジション獲得だぜ？。チーム5年振りの快挙だぜ！？。で、そんな逸材を捨ててまでまたも新人ドライバーを獲らなきゃならないところがウィリアムズの深刻な事情なんだな。<br /><br />.....さあ、今回のテーマはズバリ"ペイ・ドライバー"だ。非常に残酷な言い方をしてしまえば、実力や成績よりも巨額の持ち込み資金によってF1のシートを射止めた者。ただし、中にはそのチャンスを活かし、自らの腕で好成績を残した者もいるし、反面「ああやっぱり」的な結果しか残せなかった者も大勢いた。が、元々は貴族や金持ちの道楽として始まった自動車レース、当然過去のF1黎明期を含め、長い自動車レースの歴史を語り始めればそんな例はキリがなく、ここに紹介しきれるほど少なくもないので、ここではおそらくここを御覧になってる皆さんの平均年齢と、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/06/post-5.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">'76年富士</font></a>デビューの筆者の記憶に強く残るペイ・ドライバーを紹介することにする。<br /><br />まずは'70年代。<br /><a href="http://www.kasetatsuya.com" target="_blank"><font color="#ff00ff">筆者</font></a>が1976年のF1イン・ジャパン@FISCOで初めてF1マシンを目の当たりにした際（当時小学生）、何もかもが未知の世界であったのはご想像の通りだが、徐々にF1にのめり込んで行くに連れ、どうにも子供のアタマでは理解出来ない事柄がいくつかあった。その中のひとつが、各チーム基本2台態勢でカー・ナンバーが連番、または小規模なチームは1カー態勢での参戦が基本のようなのだが、たまにカー・ナンバーが離れた3台目のマシン／ドライバーが、それも違うチーム名で走っている例があることだった。例えば'76年シーズン、タイレル（所謂ティレル）は"エルフ・チーム・タイレル"としてナンバー・3にジョディ・シェクター、4にパトリック・デパイエをエントリー。んで、どうやらこれがワークス・タイレル。で、エースのジョディの弟であるイアン・シェクターがカー・ナンバー15で、チーム名は"レキシントン・レーシング"。更にカー・ナンバー39にオット・ストウパッシャー（OSACレーシング）、40にイタリアのアレッサンドロ・ベゼンティ・ロッシ（スクーデリア・ガルフ・ロンディーニ）、更に当該の第16戦富士では我が日本の<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_06.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">星野一義</font></a>がナンバー52でヒーローズ・レーシングからエントリー。これがどうやら"プライベート・チーム"ということらしい。ただし、ワークスのふたりが新車<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">P34</font></a>に乗っているのに対し、プライベート参戦の3人は旧車007、という状況である。他にもブラバムがワークス2台＋プライベート4台、マーチがワークス2台＋プライベート2台などなど。そして、もうひとつプライベート・チームがワークスと決定的に違うのは、そのマシンのカラーリング及びスポンサー・ロゴである。簡単に言えば確かにマシンはタイレルでありブラバムなのだが、その見た目はかなり独創的で、特にワークス・チームのデザインに馴染みがあればあるほど、その特殊な違和感を持つ見た目が不思議な魅力を持って見えて来る。<br />'70年代で筆者が記憶に強く残っているのは、メキシコ出身のヘクター・レバークといドライバーである。<br />レバークはメキシコのホテル経営による大富豪の家庭に育ったスポーツマンで、'77年第7戦ベルギーGPにヘスケスからF1デビューし、第11戦ドイツGPで初の予選通過～決勝リタイア。数戦乗った後に自身のチーム"レバーク"を発足、翌'78年にはチーム・レバークとしてロータスの名車、78を購入。第11戦得意の（？）ドイツGPで初の6位初入賞を記録した。翌'79年にはペンスキーのマシンを購入し、"レバークHR100"として参戦。レバーク本人はこのあたりで上位に食い込めぬ現状からF1に一旦見切りをつけるが、'80年に地元メキシコのスポンサーがブラバム・チームのナンバー2・シートをゲットし、初のワークス参戦。しかし後に3度の世界王者となるエースの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_37.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ネルソン・ピケ</font></a>相手に歯が立たず、'81年のフル参戦を最後に引退。参戦中、予選でただの1度もチーム・メイトを上回れなかったのがレバークの実力の全てを表していた。それでも"道具"に恵まれた'81年には最高位4位（3回）を記録、ただしこの年、同僚ピケは初の世界王者となっている。<br />ノーズにメキシコ国旗が描かれたチーム・レバークは、これまでF1史上唯一のメキシカン・チームである。「自身のチームで2年やったが、状況は好転しなかった。マシンを壊さぬよう、無事にゴールまで運ばなくてはならなかったし、スポンサーに対しても申し訳なかった。だから自分のチームを興すことにしたんだが.....今考えればあまり効果はなかった、と言わざるを得ないね」と後年レバークは当時を振り返った。が、成功した名門チームのシャシーを購入して出走しても、決してワークスのような速さに繋がらないのが、チーム力でありドライバー力であることをこの少年が知るには丁度良い存在であった。そして何より、ワークス・チームに比べて明らかに"ダサい"、彼らプライベーターのマシン・カラーが何故か妙に愛おしく感じたものである。<br /><br />続いて'80年代。.....この時代に関しては相当多くのペイ・ドライバー達がF1のパドックに犇めいていた。よって、誰かひとりを選出するのは極めて難しいのだが.....敢えて選ぶのならアンドレア・デ・チェザリスだろうか。'76年イタリア・カート王者、'79年イギリスF3選手権2位のキャリアは見事なものである。が、'80年にF1デビューを飾るチェザリスには、"そこにいる"ための極めて大きな要素が存在した。実は、彼はフィリップ・モリス社／マールボロの重役の御曹司だったのである。<br />ただし、チェザリスは実際に速かった。が、同時にそのドライビング・スタイルは極めて荒かったのも事実である。極端な言い方をするなら「金の心配はいらないから思い切り突っ走って来い」と言われてそのまま突進するタイプで、'83年第13戦カナダGPでマールボロがメイン・スポンサーを務めるアルファロメオからF1デビュー、いきなりの予選8位。フル参戦初年度の'81年は名門<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/m.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マクラーレン</font></a>へと移籍し、第4戦サンマリノGPで6位初入賞。しかしリタイア回数は8回を数える。'82年にはアルファロメオへ復帰し、第3戦ロングビーチGPで22歳（当時歴代最年少記録）での初ポール・ポジション獲得。また第6戦モナコで2位、第7戦デトロイトでも予選2位と、度胸と技術が問われる公道レースで滅法速いところを見せつける。が、結果的に見れば入賞はモナコの3位と第8戦カナダGPの2戦のみ、リタイア回数は10回。'83年、第6戦ベルギーと第10戦ドイツで予選3位、決勝はドイツと第15戦南アフリカGPでの2位2回、リタイア回数は9回.....速いが荒い。人々はチェザリスを"クラッシュ・キング"と呼び始めた。それも「いくら壊してもパパとスポンサーが許してくれるだろう」という揶揄を込めてである。'84年、チェザリスはフランスのリジェ・チームへと移籍。しかしここでも時折見せる速さとは対照的に、入賞2回（5位／6位）で目立つのはリタイア9回。翌'85年は第4戦得意のモナコで3位表彰台を獲得して見せたが、シーズン中盤に立て続けにマシンを全損させたことがチーム・オーナーのギ・リジェを激怒させ、第11戦オランダGPを最後にチームから解雇。ちなみに11戦中リタイア9回であった。<br />'86年、マールボロのスポンサードによりイタリアの小規模チーム、ミナルディにシートを得るも、マシン不調も含めて15戦中14リタイア、という目も当てられない結果を残し、チームを離脱。'87年、ブラバムへ移籍し、第3戦ベルギーGPでは見事3位表彰台を獲得、しかしやはりリタイア14回でチーム離脱。'88年は新興チーム、リアルに加入、またも得意な公道のデトロイトで最高位4位、しかしリタイアは11回に及ぶ。'89年、フェラーリ・コピーのようなイタリアの小規模チーム、スクーデリア・イタリアへ。第6戦カナダGPで雨の中3位表彰台獲得。<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_111.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">'90年開幕戦フェニックス</font></a>ではピレリ・タイヤを巧みに使い予選3位。が、結果は12回のリタイアでノー・ポイント。キャリア8年目、誰もがチェザリスの限界を知った。<br />'91年、新規参戦のジョーダンへ「マシンを壊したら罰金」という異例の条件付きで加入。マシンの速さもあって序盤に活躍を見せ、第11戦ベルギーGP（<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミハエル・シューマッハー</font></a>がチーム・メイトとしてF1デビューしたレース）では中盤2位を走行し、トップの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_21.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アイルトン・セナ</font></a>（マクラーレン・ホンダ）を追い回す活躍を見せるも結果エンジン・ブローで惜しいリタイヤ。しかし、シーズンを通じてみると自らのミス／クラッシュによるリタイヤは激減した。安定感を得たチェザリスは'92年にティレルへ移籍、自己のミスによるリタイアは2度だけと、チームのコンストラクターズ選手権6位獲得に貢献した。翌'93年はティレルの型落ちマシンに苦しみノー・ポイントに終る。'94年、チェザリスは遂にF1浪人となるが、出場停止処分を受けたエディ・アーバインに代わって第4戦モナコでジョーダンから代役出場、期待に応えて見事4位入賞。その後同GPで負傷したカール・ヴェンドリンガーに代わってザウバーへ移籍、第7戦フランスGPで6位入賞を果たす。<br />そしてこれを最後に、チェザリスの波乱のF1キャリアは終わりを告げた。'80年のF1デビュー以来足掛け14年、アルファロメオ～マクラーレン～アルファロメオ～リジェ～ミナルディ～ブラバム～スクーデリア・イタリア～ジョーダン～ティレル～ジョーダン～ザウバーとチームを渡り歩いたチェザリス。ポール・ポジション獲得1回／決勝最高位2位／最速ラップ獲得1回、決勝レース完走率34％（213戦／内リタイア回数135回）。ありがたくない"最多出走未勝利記録"保持者である。<br />F1という特殊性を考えた際、チェザリスは明らかに適切な時期に"進化し損なった"ドライバーだった。ここで言う進化とはズバリ"安定性"である。デビュー当時、その速さは確実にトップ・クラスだった。が、本来大前提である"マシンをフィニッシュ・ラインまで運ぶ"という能力に、キャリア2～3年目に結びつかなかったのがチェザリスが大成出来なかった大きな要因である。特にコンクリート・ウォールが間近に迫る公道サーキットでの速さが表しているように、レーシング・ドライバーとしての大原則である"スピードを恐れない"という部分は卓越していた筈である。しかし、それももしもチェザリスが'60～'70年代のF1を走っていたとしたら、とうに命の保証はなかっただろう。あくまでも進化したレーシング・カーの安全面に支えられ、尚且つ潤沢な資金により中堅チームから必要視されたからこその存在だったことは否めない。<br /><br />さて、'90年代は正直迷った。バリッラ・スパゲッティの息子も捨て難いし、予選落ちしてもニッコニコで参戦をエンジョイしてたラバッジおじさんもいる。.....が、あえてここでは"F1ドライバー"としての特性を問うべく、ある程度の期間をかけてその遍歴を追える存在の者を取り上げることにする。'90年代を代表するペイ・ドライバーには、ペドロ・ディニスに登場願おう。<br />ブラジルで巨大スーパー・マーケット・チェーンを展開する実業家の家に生まれたディニスは'87年、17歳の時にカートでレーシング・ドライバーとしてのキャリアをスタート、'89年にフォーミュラ・フォード・ブラジル選手権参戦、'90年に南米F3選手権、翌'91年にはイギリスF3選手権へ参戦。.....が、その間ディニスは特筆すべき成績は挙げていない。言ってしまえば、父のサポートにより潤沢な資金を使って次々にステップ・アップして行ったに過ぎない。にも関わらず、'93年には遂に国際F3000選手権（現在のGP2）に参戦。ディニスはイタリアのチーム、フォルティ・コルセに加入する。この頃フォルティ・チームは、F1へのステップ・アップを模索していた。そこへ南米の大企業を引き連れてディニスが加入、これにより潤沢な活動資金を得たフォルティは'95年、ディニスと共にF1へと参戦する。<br />'90年代中盤と言う時代性を考えると、フォルティとディニスのF1デビューはやや突飛なものとなった。パシフィックやシムテックなど、前年まで参戦していたいくつかの小規模チームが資金難から撤退を余儀なくされ、多くの資金持ち込みドライバー達が中堅チームの台所事情により出入りしている状況で、チームごとほぼ"買収"したような形でF1に参入して来るのは、やや時代遅れの感があった。例えばそれは、'70年代のレバークのようだったからである。しかもフォルティは新規参入チームにありがちな"重く、走らないマシン"を開発してしまい、当然ながらグリッド後方でのバック・マーカーとしてのレースとなり、入賞なしでデビュー・イヤーを終えた。この新チームに1年で見切りを付けたディニス・ファミリーは翌年、当時中堅チームと言えるリジェへの移籍を発表。当時資金難に苦しんでいたリジェはチーム・メイトとなった名手<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_27.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">オリビエ・パニスがモナコGPでキャリア初勝利</font></a>を挙げるなどチーム全体は向上したものの、ディニスの成績は最高位6位／リタイア10回と振るわず。'97年は最高位5位／リタイア11回、ディニスは確実にF1には慣れて行ったが、その成績が伴うことはなかった。'97年、ディニスは今度はアロウズに移籍し、前年ウィリアムズ・ルノーでタイトルを獲得しながらもチームを弾き出されたデイモン・ヒルとタッグを組む。するとディニスは意外にも現役世界王者相手に善戦、予選では何度かヒルを上回って見せた。しかし決勝では中堅チームを<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_41.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">あわや優勝かというところまで導いた</font></a>（第11戦ハンガリーGP、予選3位～決勝2位）ヒルの活躍には及ばなかった。翌'98年はチーム・メイトにミカ・サロが加入。ここでもディニスはサロに肉迫し、獲得ポイントは同点。この2年間で確実な成長を見せたディニスは徐々に周囲の見方を変えて行くことに成功する。<br />'99年、ディニスはザウバーへと移籍。ここでは元フェラーリのエース、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_42.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジャン・アレジ</font></a>をチーム・メイトに、入賞回数で上回る活躍を見せた。翌'00年はサロ相手にやや苦戦、入賞ゼロでシーズンを終えた。出走99回、完走率40％、入賞8回、獲得総ポイント10点。これがペイ・ドライバーとしては立派な数字、と言えるかどうかは定かではない。が、明らかにディニスはF1でドライビングを学習した。本人も後に「アロウズ時代に現役世界チャンピオンであるヒルから学んだことは多かった」と語っている。また、ディニスは実はF1デビュー・イヤーの'95年、元F1ドライバーのルネ・アルヌーから"ドライビング・コーチ"を受けていた。プロのF1ドライバーがドライビングのコーチを受けるということ自体が珍しいが、つまりそれほどまでにディニスは"真面目で勤勉だった"と言える。そしてその探究心は実を結び、キャリア後半では確実に自らの成長に繋がった。<br />しかし、'00年シーズンが終ると同時にディニスは突然レーシング・ドライバーを引退し、僅か30歳の若さでプロスト・グランプリの共同オーナーとなることを発表。結果的にオーナーの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_80.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アラン・プロスト</font></a>とチーム運営に関して折り合わずにこの提携は1年で終了、ディニスはここで完全にF1から身を退いてしまった。以降地元ブラジルでアンダー・フォーミュラの選手権主催など自国のモータースポーツ発展に尽くすが、現在はややレースと距離を置いた普通の実業家、として活動中である。<br /><br />さて、続く'00年代のF1ドライバーの誕生背景、はそれまでと比べて大きく様変わりした。それはひとことで言ってしまえば"<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/08/post-36.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">スカラシップ</font></a>"の台頭である。<br />極めて解りやすい例が現在の<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-24.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">レッドブル</font></a>だ。多くのスポーツに関わる彼らはフォーミュラ・レーシングに於いても独自の若手育成プログラムを設け、遂にはF1に若手発掘のための"Bチーム"という概念を齎した。レッドブルにとってのトロ・ロッソがそれにあたる。事実、'10年F1世界王者となった<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/goseb.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セバスチャン・ヴェッテル</font></a>はレッドブルの育成ドライバーとしてトロ・ロッソからF1デビューし、初優勝を遂げる大活躍を齎して"Aチーム"であるレッドブルのドライバーへと昇格した。そして今後もカートや底辺フォーミュラから有望な若手ドライバーを発掘／育成し、いつでも"Aチーム"へ上がれるよう万全の体制を整えているのである。<br />'08年世界王者、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/f1-3.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルイス・ハミルトン</font></a>の形容詞は"マクラーレンの秘蔵っ子"である。幼い頃にマクラーレンの総帥ロン・デニスに見い出されたハミルトンは未来のマクラーレン・ドライバーへの道を約束され、アンダー・フォーミュラでの英才教育が施された。結果、ハミルトンはデビュー・イヤーから2度の世界王座に輝くアロンソをチーム・メイトにタイトル争いを繰り広げて見せ、下積みなくしてトップ・ドライバーの仲間入りを果たしたのである。<br />我が日本も<a href="http://www.honda.co.jp/news/2008/c081205.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ホンダ</font></a>／<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/11/post-16.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">トヨタ</font></a>の2大メーカーの参戦時にはこのスカラシップ制度が大きく影響していた。ホンダ主催のSRS（鈴鹿レーシング・スクール）出身の<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/02/post-22.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">佐藤琢磨</font></a>、トヨタのTDP（トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム）の<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/09/post-9.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">中嶋一貴</font></a>らがまさにそれにあたり、トヨタ撤退後に本格参戦することとなった現役の<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-23.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">小林可夢偉</font></a>もまたTDP所属ドライバーである。<br />こうした動きにより'00年代にはもはやペイ・ドライバーは時代遅れとなりつつあった。が、実際に資金難のF1チームを救えるのはやはり"金持ち"でしかなく、シーズン後半になると、実力者でありながら豊富な資金を持ち込む新進ドライバーにシートを明け渡すベテラン、という構図はグリッド後方、ジョーダン／スパイカーやミナルディなどのチームでは見慣れたものとなっていた。しかし、例えば<br />'90年代のディニスのようにチームの年間予算を丸ごと賄えるようなペイ・ドライバーは登場せず、あくまでもスポット参戦的なものにとどまった。それだけ世界的な不況が深刻だった事実も確かだが、'08年にはドイツの雑誌が「参戦する22人全員がギャランティを貰って乗っているという統計が取れた」と発表。ちなみに最高額は<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2011/01/post-38.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェルナンド・アロンソ</font></a>（当時ルノー）の2,800万ドル、最低額は中嶋一貴（当時ウィリアムズ）で100万ドル、とのこと。.....持ち込みスポンサーや企業バックアップとチーム／個人の契約内容など外野に解る筈もなく、全てが憶測に過ぎないのは事実だが、'00年代はペイ・ドライバーの時代ではなかった、というのは事実である。<br /><br />そして迎えた2010年代。レギュレーションの妙、と言えばタイミングが良過ぎるが、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-20.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">FIAが提案した低年間予算によるチーム運営</font></a>実現に向け、新たに3つのF1チームが誕生した。しかし結果的に彼らがグリッドに並んだ時、その案は既に過去のものとなり、彼らは予想外の資金繰りに頭を悩ませることとなる。そして、ペイ・ドライバーの復活である。ロシア政府のバックアップを持つヴィタリー・ペトロフが、個人資産を注ぎ込める<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/06/post-30.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">山本左近</font></a>が、悩めるF1チームの財政を救った。そして1年間頑固に我が道を行った<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_73.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ペーター・ザウバー</font></a>も遂に観念、今季はセルジオ・ペレスの加入により豊富なメキシカン・マネーがアテに出来る。フランク・ウィリアムズもまた、パストール・マルドナドへのベネズエラ政府のバックアップにより"延命"を成功させた。<br />.....しかし、忘れてはならないことがある。このふたりは、昨年のGP2選手権1位と2位の実力者なのである。F1直下のカテゴリーでトップを争ったふたり、つまり彼らはF1そのものによるスカラシップ・ドライバーなのだ。資金力は彼らの付加価値でしかなく、逆に言えば、資金力に加えてトップ・フォーミュラで闘える力を確実に持ったドライバーなのである。これでは、ただ資金力のある"だけ"の者に出番はない。時代は巡り、今求められているのは全ての要素を兼ね備えたドライバーだけ、と言える。<br /><br />.....元々"金持ちと貴族の道楽"として始まった自動車レース。その最高峰に位置するF1世界選手権は2011年、"金持ちと才能の競演"となる。果たして今のF1に、巨額の資金と共に5年振りの現役復帰となるカーティケヤンの居場所はあるのか。それとも"才色兼備"のマルドナド／ペレスが新たな時代を切り開くのか。<br /><br /><i>「マルドナドはペイ・ドライバーではない。今までそんなドライバーを乗せたこともない」'11年／アダム・パー（ウィリアムズ）</i><br /><br />////////////////////////////////////////////////<br /><br />"バリアの外側のマニア"加瀬竜哉が最新のF1ニュースをピックアップし、そのニュースの背景を持ち前のマニアックな視点から掘り下げ、更により解りやすく解説し、検証する。<br /><br /><a href="http://www.kasetatsuya.com/cgi/uk/topics.cgi" target="_blank"><font color="#ff00ff">no race, no life formula1 topics</font></a></font></p>
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<p>&nbsp;</p>]]>
        
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    <title>英雄の憂鬱</title>
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    <published>2011-01-16T09:08:25Z</published>
    <updated>2011-01-16T09:11:15Z</updated>

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        <name>加瀬竜哉</name>
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        <![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">.....それは王者にあるまじき行為だった。'10年最終戦アブダビGP、このレースで3度目のドライバーズ・タイトルを獲得出来た筈のフェルナンド・アロンソは、自分がレース全般に於いて抜けなかった目前の敵／6位でフィニッシュしたルノーのルーキー・ドライバー、ヴィタリー・ペトロフに対し、パレード・ラップ中に拳を振り上げて抗議したのである。それは、逆転で初めてのタイトルを手にした<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-24.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">レッドブル</font></a>の若き天才、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/goseb.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セバスチャン・ヴェッテル</font></a>の喜びに満ちたガッツ・ポーズとはあまりにも対照的なものとなって、全世界にTV放映された。「もしも僕が彼の立場だったら確かに怒ったかも知れない。でもそれは間違った戦略を選んだ自分とチームに対して、だけどね！」ペトロフは堂々と、自らの翌年のシート確約に向けて良いレースをしたという確信に満ちた表情をしていた。反対にアロンソは明らかにイライラしていた。.....名門<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/06/post-29.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェラーリ</font></a>での初年度、アロンソは最後の1戦で"敗者"となったのである。<br />.....フェルナンド・アロンソ。'10年、念願の名門フェラーリを果たし、久しぶりにタイトル争いの場へと返り咲いたスペインの英雄である。が、最終戦でランキング首位にいたアロンソと彼のチームはとてつもなく初歩的な戦略ミスを犯し、同じく選手権2番手の<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-25.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マーク・ウェバー</font></a>（レッドブル）と主に後方に沈み、ランキング3番手のヴェッテルに易々と逆転王座を献上してしまった。終ってみればどうにもチグハグなシーズンを終え、当初彼ら（アロンソ＋フェラーリ）は元王者として最強の組み合わせに思えていた。が、結果的に昨年王者となったヴェッテル＋レッドブルは、これまでとは違うポイント・システムを最大限に活用し、新王者となった。そしてその裏には、絶対的No.1ドライバーと王道の戦略を採った名門チームの、戦略の"古さ"が浮き彫りになってしまった。<br />アロンソの時代はもう終ったのか？。現役最強ドライバーと言われ、鳴りもの入りでフェラーリ入りを果たしたスペインの英雄は、再び輝くことが出来るのか？。<br /><br />フェルナンド・アロンソは1981年7月29日、スペインの北部の工業都市、アストゥリアス州オビエドにて、炭坑夫の父とパート主婦、というオビエドでは極めて一般的な家庭に誕生。父ホセ・ルイス・アロンソは自らがアマチュアのカート・レーサーであったことから、自分の子供達にもレースを楽しんで貰いたいと、まず8歳の長女ロレーナにカートを買い与えたが全く興味を示さず、ほどなくカートは当時3歳の弟、フェルナンドのものとなったのだという。そしてカートに夢中になったアロンソは'88年にカート・アストゥリアス・選手権にデビュー、7戦に勝利してタイトルを獲得してみせた。幼いアロンソのアイドルは<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_21.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アイルトン・セナ</font></a>だったと言う。「我が家は決して裕福な家庭じゃなかったけど、父がメカニックとしてレースをサポートしてくれたおかげで、徐々にスポンサーが付いて行ったんだ」'91年にスペイン・ナショナル・シリーズに参戦、'93年、12歳のアロンソは遂にスペイン・ジュニア・カート王者となり、このタイトルを以後4年間守り続け、無敵の新人レーサーとして注目を浴びる。'96年にはカート世界選手権を制覇、'97、'98年とスペイン／イタリアでインターAのタイトルも獲得した。<br />この若き王者の活躍に注目したのが、同国出身の元F1ドライバー、エイドリアン・カンポスであった。カンポスは自らのチームにアロンソを招き、3日間のフォーミュラ・ニッサンのテスト走行を担当させた。この際、自身初のフォーミュラカー・ドライヴとなったアロンソはアルバセテ・サーキットで数日前に行われたレースのポール・ポジション・タイムに匹敵する好タイムを記録。これによりアロンソは翌'99年、カンポスのチームからユーロ・オープン・モビスター・バイ・ニッサンに参戦し、デビュー戦優勝という鮮烈なスタートを切り、楽々とタイトルを獲得してみせた。<br />.....このスペイン出身の若きスターの活躍に眼をつけた者がもうひとりいた。フラビオ・ブリアトーレ。ベネトンF1チームのマネージャーを経て、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミハエル・シューマッハー</font></a>を擁してタイトルを獲得した有能なビジネスマンであるブリアトーレが早くもアロンソを傘下に置き、この年のF1ミナルディ・チームのテスト・ドライヴの機会を設ける。ここでも他の新人を寄せ付けない速さを見せたアロンソは'00年の国際F3000選手権参戦（ランキング4位）を経て、'01年、ブリアトーレのマネージメント下／ルノーの契約ドライバーとしてミナルディからF1デビューを飾る。19歳と217日は、史上3番目の若きF1デビューとなった。しかし実はブリアトーレはアロンソに経験を積ませるため、敢えて弱小チームであるミナルディからのデビューをセッティングし、翌'02年、今度はルノーのテスト・ドライバーとしてトップ・チームとの仕事のやり方を学ばせたのである。「もちろんその頃はレースに出たくてウズウズしていたけれど、今振り返れば良い経験を積むことが出来たと思えるよ」'03年、アロンソはチームを解雇された<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/07/post-34.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジェンソン・バトン</font></a>の後任としてルノーのレギュラー・シートを獲得、遂にトップ・チームからのF1参戦となった。<br /><br />若き才能の開花はあっと言う間に訪れた。第2戦マレーシアGPで自身初のポール・ポジション獲得。21歳236日でのP.P.獲得はF1最年少記録となり、翌日の決勝では3位に入賞して初表彰台、これも21歳237日での達成は最年少記録であり、同時にスペイン人F1ドライバーとして初の表彰台獲得でもあった。第5戦地元スペインGPは故郷・オビエドの青いフラッグがグランド・スタンドを埋め尽くす中、絶好調のフェラーリ勢に割って入る2位フィニッシュ。波に乗るアロンソは第13戦ハンガリーGPで自身2度目のポール・ポジションを獲得。決勝でもスタートからグイグイと2位ウェバー（ジャガー）との差を広げて行き、10周目には既に17秒差。最終的にはチーム・メイトであるベテランのヤルノ・トゥルーリまでも周回遅れにする圧倒的速さで初優勝。これはワークス・ルノーとして20年振り、自身も22歳と26日でのF1初勝利で、続々と最年少記録を塗り替えて行った。この実質的なF1デビュー・イヤーをアロンソは1勝／55点獲得／シーズン6位で締めくくった。<br />翌'04年は開幕から常勝フェラーリ勢が圧倒的な速さを見せ、アロンソは無勝／ランキング4位に留まる。そして迎えた'05年、経験を積んだスペインの若き英雄は遂に王者フェラーリ、そして7度の世界タイトルを獲得した皇帝・シューマッハーへ挑む時を迎えた。<br /><br />'05年、ルノーが打倒フェラーリのために制作したニュー・マシンR25は開幕から戦闘力を発揮、開幕戦こそチーム・メイトのジャンカルロ・フィジケラの後塵を拝するが第2戦マレーシアで自身2勝目を挙げるとそこから破竹の3連勝。第10戦フランスGPでは地元ルノーに22年振りの勝利を齎した。序盤でフェラーリ撃墜に成功したルノー陣営はシーズン中盤から<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/m.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マクラーレン</font></a>・メルセデスの若きエース、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/iceman.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">キミ・ライコネン</font></a>が追い上げるが、最終的にライコネンと同じ7勝で逃げ切った。「素晴らしい。人生を通じ、願っていたことが叶った瞬間だ。僕はこれが欲しかったのさ！」スペイン初のF1世界王者は24歳58日での史上最年少F1王座獲得であり、これはブラジルの雄エマーソン・フィッティパルディの25歳273日を33年振りに塗り替える記録ともなった。<br /><br />翌'06年、アロンソ／ルノーはシーズン序盤に前年の好調さを維持し、後半にシューマッハー／フェラーリの猛対を受けるもこれを寄せ付けず、見事に2年連続王者に輝く。これにより、アロンソは現役として最強時代のシューマッハーと直接対峙し、打ち破ったことで名実共にF1の若き英雄となったのである。<br />.....'07年、アロンソは満を持して好調のもうひとつの最強ワークス、マクラーレン・メルセデスへと移籍する。チーム・メイトはファン・パブロ・モントーヤのNASCAR移籍、ライコネンのフェラーリ移籍でデビューが決まった、マクラーレンの秘蔵っ子でこの年F1デビューとなるイギリスの<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/f1-3.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルイス・ハミルトン</font></a>。つまり、2年連続王者アロンソは新人を相手に、マクラーレン・メルセデスの新たなエース・ドライバーとしてチームに迎え入れられる、ということになる.....筈だった。<br /><br />開幕戦オーストラリアGPをフェラーリのライコネンが制し、続く第2戦マレーシアでアロンソはマクラーレン移籍初勝利を挙げる。第3戦バーレーン、第4戦スペインをライコネンの同僚<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/forza-felipe-siamo-con-te.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェリペ・マッサ</font></a>が制し、ライバル・チームの星が割れる中、第5戦モナコをポール・トゥ・ウィンで制したアロンソはマクラーレンのエースとしてタイトル争いをリードする。ところが、ここまで未勝利ながらもデビュー以来全戦で表彰台に上がった新人ハミルトンが得点上アロンソと並び、第6戦カナダで自身初優勝、続く第7戦アメリカGPも制してドライバーズ・ランキングのトップに躍り出る。<br />アロンソは困惑し始めていた。確かに、ハミルトンはマクラーレンの総帥、ロン・デニスの秘蔵っ子として英才教育を受け、満を持してF1デビューを迎えた、マクラーレンの地元である英国人である。そして、マクラーレンは伝統的に"ジョイントNo.1"を唱うチームである。しかし、アロンソの常識の中では、どう考えても2年連続、それも皇帝・シューマッハーを倒して世界王者となり、カーNo.1を纏う自分こそがマクラーレンのエース・ドライバーな筈である。それが、どうもチーム全体のムードを自分へと向けることが難しい。これは、ルノー時代には有り得ないことだった。焦ったアロンソは、第11戦ハンガリーGP予選でハミルトンのアタックを妨害するという、不必要なミスを犯す。これによりチーム内での信頼をも失ったアロンソは、結局最終戦まで縺れたタイトル争いに僅か1ポイント差でライコネンに敗れてしまった。更にマクラーレンとフェラーリを巡る"スパイゲート事件"に於いて、マクラーレン側に不利な証拠となるEメールの存在を公開したことでデニスと対立。居場所を失ったアロンソは3年契約だったマクラーレンを僅か1年で去ることとなってしまった。<br /><br />'08年、アロンソは"やむなく"、古巣ルノーへと復帰。しかしそこは既にアロンソに2年連続王座を齎したトップ・チームではなく、低迷する中堅でしかなかった。アロンソは走らぬマシンと格闘しながらも徐々に成績を挙げ、シーズン終盤第15戦シンガポールGPでシーズン初勝利。ところが後になってこのレースはアロンソを勝たせるためにブリアトーレとルノーのディレクター、パット・シモンズが企てた、アロンソのピット作業直後にチーム・メイト（ネルソン・ピケJr）を故意にクラッシュさせてセーフティ・カー導入のきっかけを作り、ピット作業を強いられるライバルを出し抜く、という所謂"<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/09/post-10.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">クラッシュ・ゲート</font></a>"によるものだったことが発覚。しかし、本人はこの勝利で波に乗り、続く第16戦鈴鹿を連覇。'09年は未勝利に終るが、アロンソは既に自らのキャリアを修正し、最高の舞台へ上がるべく準備を行っていた。10月1日、アロンソ、フェラーリ入り発表。そこには、アロンソが最も欲しかったもの、つまり揺るぎない"絶対的エース・ドライバー"としての待遇が約束されていたのである。<br /><br />そして迎えた'10年シーズン。遂に栄光の跳馬のエース・ドライバーとなったアロンソは開幕戦バーレーンGPを制覇。グリッド上で決してベストなマシンではないにも関わらず、チーム5年目となるチーム・メイトのマッサを寄せ付けず、タイトル争いに加わってみせた。が、'08年第15戦シンガポールの"クラッシュ・ゲート事件"で付いたイメージを更に強くする事件が起きた。第11戦ドイツGP。ポール・ポジションのヴェッテル（レッドブル・ルノー）と予選2番手のアロンソのコーナー争いの隙を付き、予選3位のマッサがトップに躍り出てフェラーリ1-2態勢へ。レース中盤、マッサのペースが上がらなくなり、3位ヴェッテルがアロンソに肉迫する。アロンソは無線でピットに「バカげている！」と抗議。ドライバーズ・タイトルを争う自分がマッサの後でフィニッシュすることを受け入れられないとチームに訴えた。<br />そして48周目、トップを走るマッサの無線に担当エンジニア、ロブ・スメドレイからの声が飛ぶ。「<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/07/post-35.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェルナンドは君より速い。言ってる意味、解るよね？</font></a>」マッサは無言だった。翌49周目、マッサはターン6の立ち上がりでアクセル・ペダルを緩め、露骨にアロンソにトップを譲った。そしてスメドレイから「ありがとう。すまない」との返事が世界中に流れたのである。アロンソはトップでチェッカーを受けたあと、無線で「フェリペはいったいどうしたんだ？、何かあったのか」とチームに問いかけた。返事は「いや、大丈夫だ。その件に関してはあとで話すよ」と意味深なものだった。<br />チーム間で順位をコントロールするのはモータースポーツと言えども作戦上当然のことである。が、レース中にチームの指示でそれが行われるのは、ドライバーズ選手権でもある以上スポーツマン・シップ的に適切でないとされ、国際スポーティング・コード第39条に"チーム・オーダー禁止"という条例が設けられていた。フェラーリはこれに違反したのである。が、レース・スチュワードとFIAはフェラーリに10万ドル（約900万円）の罰金を課したが、順位はそのままとなった。つまり、アロンソは'10年、ひとつは確実に勝利を"譲り受けた"のである。<br />最終戦アブダビGP。ポール・ポジション・スタートのヴェッテルが勝っても自身4位、予選で自分より後方だったレッドブルのウェバーが勝っても自身2位でタイトル獲得、というポジションにいるアロンソが、どう考えてもタイトル獲得の可能性が最も高い位置にいた。そして、冒頭に記した通り、アロンソは伏兵となったルノーの新人ドライバーを抜きあぐね、王座争いに敗れた。そしてあろうことか、パレード・ラップ中にその新人ドライバーに拳を振り上げたのである。<br /><br />9年間で出走160戦、ドライバーズ選手権製制覇2回、優勝26回、ポール・ポジション獲得20回、最速ラップ18回、ポール・トゥ・ウィン13回、通算獲得ポイント829点。シューマッハー／フェラーリの栄光時代に、実力で王座を奪い取った若きスペインの英雄、それがフェルナンド・アロンソのイメージである。<br />意外にもアロンソは自らのドライヴィング・スタイルを評して、安定感に優れているのだと言う。「僕は決して最速でも最強でもないよ。ただ、安定感があるんだ」母国スペインに於いて、スペイン人初のF1ウィナー／ワールド・チャンピオンであるアロンソの人気は凄まじい。元よりレース好きの国民性も手伝い、アロンソの登場でF1人気も上がり、熱狂的なアロンソ・ファンによる"アロンソ・マニア"が存在し、オビエドの青い横断幕を掲げてアロンソを応援する。'05年に初タイトルを獲得した際、地元オビエドでは全人口20万人の内1/4にあたる5万人が広場に集まって大騒ぎとなった。またアロンソはスペインの王太子賞を史上最年少で受賞、正にスペインでは"国民的英雄"と呼ぶに相応しい存在である。<br />.....その英雄が時折見せる素顔。彼は明らかにイライラしている。<br /><br />"クラッシュ・ゲート事件"の舞台となった'08年第15戦シンガポールGP。低迷するシーズンに於いて何故か絶好調のアロンソは予選Q1で6番手のタイムを余裕で記録、市街地／F1初のナイト・レースで、アロンソと彼の担当エンジニアは明らかに適切なセット・アップを見つけ出しており、決勝レースでの好成績が期待されていた。が、Q2開始直後に燃料系のトラブルでストップ、不本意な予選15位となったアロンソはマシンを降りるや天を仰ぎ、悔しさを全身でアピール、ピットへ帰ってからも怒り心頭でメカニック達に当たり散らした。もしかしたらシーズン初優勝も可能だったかも知れないこのチャンス、結局ルノーの首脳陣はあってはならない作戦を模索し、そして事件は起きてしまった。<br />'10年第10戦ドイツGPも同様である。絶妙なスタートで先行するマッサに抑え込まれ、チームに無線で「こんなのバカげてる！」と抗議、最終的にマッサに先頭を譲らせて勝利した。最終戦アブダビGPでは自分が抜きあぐねたルノーのペトロフに拳を振り上げて「オマエのせいでタイトルを逃した」と言わんばかりのアピールを行った。もちろんペトロフはアロンソと同一周回でポイントを争っており、文句を言われる筋合いは全くない。ただ単に、彼らはアロンソの"予定"を狂わせるものだっただけなのである。<br />こうした行動から見え隠れするもの.....それは、アロンソの性格に潜む"自己中心主義"である。もちろん言い方を変えれば、それは世界最高峰カテゴリーのエース・ドライバーに、そしてワールド・チャンピオンに必要不可欠なものである。ただし逆の見方をすれば、アロンソのそれは相当に極端でもあり、例えばレース中のオンボード・カメラに映し出される"前方のバック・マーカーに進路を譲れと抗議する"回数だけでも相当に多く、ヴェッテルやハミルトンなどはそれが悪質なブロックでない限りは滅多に行わないが、アロンソは相手が見えて来た時点で既に手を振って進路を確保しようとする。しかもそれが'10年最終戦のように同一周回で順位を争う相手にまで及ぶとなると、これは相当な"オレ様主義"と言わざるを得ない。が、F1の、それもフェラーリのエース・ドライバーとして考えれば当然のことかも知れず、ある意味同じことを行って一時代を築いたシューマッハーの後継者、としては相応しいと言える。<br /><br />その"オレ様"アロンソの立場が最も揺らいだのが前述のマクラーレン時代である。アロンソはキャリアで初めて"手強い相手"（敵わない相手、ではない）に遭遇した。ハミルトンは確かにマクラーレンの"秘蔵っ子"だったが、決してチームに贔屓されていたわけではない。チームは伝統に則り"ジョイントNo.1"を掲げただけなのである。ところがアロンソはこれに不信感を持ち、不用意にもマスコミにアピールすることで発散しようとし、過剰反応したスペイン国民13万人（！）がチームに嘆願書を提出したり、ハミルトンに対する人種差別行動などに発展してしまった。ちなみにアロンソが'07年のマクラーレンを「僕のおかげでコンマ5秒速くなった筈」と発言した際、ハミルトンから「これは大勢のスタッフがいてのチーム・プレイ。誰かひとりのおかげなんてとんでもない」と反論されている。こうした経緯により、アロンソはこのままマクラーレンに留まることで自身が"ヒール（悪役）"とイメージされるのを恐れたこともあり、王者マクラーレンとの3年契約を1年で破棄する事態に至ったのである。<br /><br />アロンソは2度の世界王座を獲得すると共に、2度に渡って獲れた筈のタイトルを逃している。1度はマクラーレン時代、最強マシンを手にしながら、ハミルトンと星の奪い合いとなってフェラーリのライコネンにたった1点差で敗れた'07年。もう1度は点数計算に気を取られたあまり、純粋に勝ちを狙ったヴェッテルに負けたフェラーリ初年度の'10年。いずれもトップ・チーム加入1年目であり、どちらも逆転負けである。これにより、アロンソのイメージは駆け引きが得意というよりも、がむしゃらに走った際の圧倒的強さが際立つ。ところが、意外にもプライベートでのアロンソには"カード・ゲーム／マジック好き"という一面があり、ヘルメットのデザインにも用いられているほどで、中でもポーカーがお気に入りのようである。F1のパドックでも多くのドライバー仲間や関係者を招いてポーカー大会を行うほどで、こうした部分にアロンソの"駆け引き"に対する並々ならぬ興味が見え隠れする。しかし、特にスペインのマスコミにとってはこの世界的英雄と、妻であるスペインの人気ロック・グループのリード・シンガー、<a href="http://www.elsuenodemorfeo.com" target="_blank"><font color="#ff00ff">ラケル・デル・ロサリオ</font></a>とのプライベートは格好の標的となり、常にパパラッチとの攻防が繰り広げられている。<br /><br />.....アロンソの2010年の"負け方"はこれ以上なく酷いものだった。トップ・レベルとは言い難いマシン性能、後手後手に回ってしまうレース戦略、そしてライバル達の底力。しかし、伝統の跳馬を背負う英雄・アロンソは鬼門の"トップ・チームでの1年目"を終え、いよいよ攻撃態勢を整えて来る。明らかにマッサをセカンド・ドライバーに落として自らが名実共にフェラーリの真のエースとなり、フェラーリ自体も得意の<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/05/kers.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">KERS</font></a>が復活する2011年。もはやアロンソに死角はない。スペインが誇る英雄は、今年こそ天下を獲りに来る筈だ。<br /><br /><br /><i>「フェラーリがキャリア最後のチームだ」／フェルナンド・アロンソ</i><br /></font></p>
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<p><font color="#3e6b3a">.....さて、筆者の本拠地となるサイト"加瀬竜哉.com（<a href="http://www.kasetatsuya.com" target="_blank"><font color="#ff00ff">www.kasetatsuya.com</font></a>）では、この度F1の最新ニュースを深く掘り下げ、更に入門者にも可能な限り解りやすく、そのニュースの背景を解説／検証する新コンテンツをスタート！。その名もズバリ、<br />no race, no life formula1 topics<br />複雑な人物名や関係、経緯などを初心者向きに目線を下げ、それでも伝統の"no race, no life"の名に恥じないよう、オレ流の"バリアの外側目線"で最新情報をバッサリ切って行きます。どうぞお楽しみ下さい！。<br /><br /><a href="http://www.kasetatsuya.com/cgi/uk/topics.cgi" target="_blank"><font color="#ff00ff">no race, no life formula1 topics</font></a></font></p>
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    <title>2010総括</title>
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    <published>2010-12-26T07:54:59Z</published>
    <updated>2010-12-26T09:00:32Z</updated>

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        <name>加瀬竜哉</name>
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        <![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">'10年F1世界選手権第17戦韓国GPにて、ドライバーズ・タイトルを争う5人のドライバー／ポイント的に王者となる可能性の残された5人が並び、笑顔でカメラマン達の撮影に応じた。メンバーは<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-25.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マーク・ウェバー</font></a>（レッドブル・ルノー）、フェルナンド・アロンソ（フェラーリ）、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/f1-3.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルイス・ハミルトン</font></a>（マクラーレン・メルセデス）、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/07/post-34.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジェンソン・バトン</font></a>（マクラーレン・メルセデス）、そして<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/goseb.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セバスチャン・ヴェッテル</font></a>（レッドブル・ルノー）。<br />.....いつか何処かで、これと同じような状況を見たな。そう、あれは.....'86年の最終戦アデレイドだ。メンバーは<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_33.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ナイジェル・マンセル</font></a>（ウィリアムズ・ホンダ／70点）、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_80.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アラン・プロスト</font></a>（マクラーレン・TAGポルシェ／64点）、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_37.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ネルソン・ピケ</font></a>（ウィリアムズ・ホンダ／63点）、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_21.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アイルトン・セナ</font></a>（ロータス・ルノー／55点）の4人。表向きには社交的なプロストを除いて、皆精一杯の作り笑顔。特に両端のブラジルの"犬猿の仲"のふたり（セナ／ピケ）の距離感が大きかったな。<br />マンセルは遂に悲願のタイトル獲得を目前にモノ凄い緊張感。反対にまだデビュー3年目／2勝でランキング4位と遅れるセナはやることがハッキリしてる。対照的に、守り方を知っている3度の王者・ピケはやや気楽そうだ。が、ポイント上難しい位置にいるプロストが最も気楽そうに見える。そして結果は.....飛ばし過ぎたマンセルがトップ快走中にタイヤ・バーストで自滅、それを見て守りに入ったピケはペースが上げられず、結局交換したタイヤを労りつつ自分のペースで走ったプロストが栄冠をものにした。終ってみれば、最後に笑ったのは冷静な"巧者"だったのである。<br />この所謂"セナプロピケマン"時代（'80～'90年代）の面白さが何故後世まで語り継がれているのか、と言えばもちろんF1GPの歴史上、最も優れたドライバー達の競演、という部分が大きい。ただし、そこには外から目線による"イメージ"という部分が、きらびやかな'80年代に於いて個々の持つキャラクターと共に先行するのは否めない。しかしそのイメージを我々は個別の魅力として設定し、レースを楽しむために活用する。例えばこんな感じだ。<br /><br />セナ＝速いドライバー<br />プロスト＝巧いドライバー<br />ピケ＝強いドライバー<br />マンセル＝不運なドライバー<br /><br />.....実際にどうだったのかは別として、同じようにグランプリに勝利する彼らには、勝つためにそれぞれ違った要素が備わっていた。セナは圧倒的な"速さ"でポール・ポジションを獲得し、レースでもスタートからひとり旅。その速さは疑いようがないものの、反対に地道にポイントを獲得し続け、レース終盤に最速ラップを更新しながら迫って来るプロストのような"巧さ"はない。同様にプロストにはポール・ポジションは必要ない、とさえ言われていた。王者ピケは、速さで勝るマンセルに対しレース中一貫して揺るぎない"強さ"を見せつけ、同じ道具～当時最強のウィリアムズ・ホンダ・ターボ～を使って王者に相応しい強さの持ち主は自分であることを証明してみせた。結局マンセルのタイトル獲得は'92年の1度のみ。他の3人が同時期に3度以上のタイトルを手にしていることからも、マンセルというドライバーが環境的にも"不運"だったのは否めない。歴代4位の31勝を挙げながら"無冠の帝王"と呼ばれ続けた理由はそこにあった。<br />しかし、同時にこれはF1では速いだけでも、強いだけでも、巧いだけでも運が良いだけでも世界チャンピオンには簡単にはなれないことをも意味している。それだけ毎年タイトル争いも白熱し、'86年は前述のように巧さでプロスト、'87年は強さのピケが不運のマンセルを降し、'88年は圧倒的な速さでセナ、翌'89年は巧者プロストがそのセナに作戦勝ち.....各ドライバーの力関係はそのままに、シーズンを通じて持ち味を上手く活かした者が王座に就いていた。<br /><br />.....とまあここまで書いておいて、筆者は決して'10年シーズンが"セナプロピケマン時代"に匹敵するほど魅力的な選手権だった、と書くつもりはさらさらない。ただ、各ドライバーの持ち味と戦略、そして結果が当時の構図を想い出させるには丁度良いものだった、という程度である。<br /><br />第15戦シンガポールGP終了時、ランキング首位はウェバー（202点）。このレースの勝者である絶好調のアロンソが191点で続き、3位には182点でハミルトン、開幕前の下馬評の主役、ヴェッテルは181点で4位、バトンが177点で5位。<br />まず、シーズン後半にも関わらず精力的にモディファイを繰り返すマクラーレン陣営に、正直言って勝ち目は少なかった。'08年王者のハミルトンは持ち前の天性の速さで勝利してみせるがそれもコース特性とMP4／25が上手くハマった際のみ、しかも速さのハミルトンは"壊し屋"ハミルトンでもあり、持ち帰るポイントは決して安定しない。'09年王者バトンは雨を味方につけるなど"巧さ"と"運の良さ"は見せたが、速さとスピードではライバル達に太刀打ち出来なかった。よって、現実的なタイトル争いはウェバー／アロンソ、そしてヴェッテルの3者によって行われていた、と言える。<br />この中で唯一のタイトル経験者であるアロンソ（'05、'06年王者）とフェラーリは豪語した。「リスクを冒さず、堅実に表彰台フィニッシュを目指し続ける。そうすれば、おのずとチャンスはやって来る」攻撃力以外に獲得ポイントの防衛力を知るベテランは、シーズン後半を強さと巧さで乗り切ることを決めた。<br />ランキング首位のウェバーは既にその孤独感とプレッシャーに押し潰されかけていた。世界最速のマシンは、今彼の手元にある。が、それは昨年終盤まで<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/10/post-14.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ブラウンGP</font></a>・メルセデスとタイトル争いを繰り広げ、この若き<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-24.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">レッドブル・チーム</font></a>と弟分のトロ・ロッソに初勝利を齎したグループ全体の期待の星、ヴェッテルのために準備されたものだった。クリスチャン・ホーナー、ヘルムート・マルコ、いや世界中が「オマエはNo.2ドライバーだ」と言っている気がしていた。僕は本当に王者に相応しいのか？。自分は本当にセブを倒せるのか？。その迷いの中でウェバーは趣味の<a href="http://www.f1-stinger.com/f1-news/news/2010/12/07/011646.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マウンテン・バイクで怪我</font></a>をした。チームにも報告出来ない。ウェバーはランキング首位のまま数戦を残し、精神的な弱さによって既にタイトル争いから脱落していたのである。<br />シーズンはもっと容易に自分のものとなる筈だった。ヴェッテルは苛立ち、焦り、つまらないミスを連発した。チーム・メイトと絡み、その際の不要なパフォーマンスによってその焦りは世界中に気付かれてしまった。「来年こそ必ず」そう誓ったシーズンは間もなく終る。自分の前にはより多くのポイントを獲得した"お利口なドライバー"が3人いた。第17戦日本GP／得意の鈴鹿を前に、未だ2勝しかしていないヴェッテルは考え方を変えた。今季7回のポール・ポジション獲得。自分の手元には最速マシン、RB6がある。目指すのは勝利のみ。ポイント計算でもなく、ライバル達とのマッチ・レースでもない、自分のレースをしよう。持ち前の速さに加え、ヴェッテルはシーズン終盤用アイテムに精神的な"強さ"を選んだ。<br /><br />そして迎えた最終戦・アブダビGPは"こっけいな"レースだった。チャンスは少ないながらも、自信を持ってレースに望むヴェッテルとハミルトン。特にヴェッテルは鈴鹿以降3戦2勝、唯一エンジン・トラブルで落とした韓国GPを含め、終盤3戦の全てでトップ快走。後を誰が走っていて誰が何位で何点獲得か、なんてことは考えてもいない。ランキング3位の自分が世界王者になるためには、まず自身が勝つしかない。自分の仕事は予選でポール・ポジションを獲得し、レースでトップ・チェッカーを受けること。今季10回目のポール・ポジションを獲得したヴェッテルは"いつものように"レースをリードした。<br />ランキング首位のアロンソは、2位ウェバーが勝っても自身が2位、ヴェッテル優勝でも4位以上でタイトル決定、という通常なら相当"気楽な"ポジションにいた。「誰が勝っても問題ないよ」2位ウェバーは自らが勝ち、アロンソ3位以下か、ヴェッテルを従えての2位が絶対条件。現実的には、ふたりとも速さで敵わないヴェッテルの勝利を前提に、アロンソがウェバーを従えての4位フィニッシュを狙い、ウェバーはヴェッテルの失速を期待するレースとなった。<br /><br />.....そして、'10年シーズンが"セナプロピケマン時代"と同様とはお世辞にも言えないレースが終った。ここまで名前も出て来ない、勝利も手にしていない"脇役"とでもいうべき別の個性が、この異様な"計算レース"を面白くしてくれた。<br /><br />ロシア初のF1ドライバーとして今季ルノーからデビューした新人、ヴィタリー・ペトロフ。1984年生まれの彼は少年期のカート・キャリアを持たず、'01年のラーダ・ロシア・カップでレース・デビューし、'03年にイタリア・フォーミュラ・ルノーにステップ・アップ。'06年ユーロF3000選手権で3位、'09年GP2選手権ではニコ・ヒュルケンベルグに次いで総合2位となった。今季1,500万ユーロの持ち込み資金と共にルノーF1入り、しかし速さ／結果共にエース・ドライバーのロベルト・クビサに大きく離され、パドックでは最終戦を迎えてまだ尚、来季のシート喪失の噂が絶えなかった。<br />その"伏兵"ペトロフがアロンソ／ウェバーの前に立ち塞がった。オープニング・ラップでの多重クラッシュによりセーフティ・カーが入るとペトロフは即座にプライム・タイヤへの交換を終了。トップのヴェッテルが逃げ、ハミルトン／バトンのマクラーレン・コンビが続くと、ペトロフは同様の戦略を取ったメルセデスGPの<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/08/post-7.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ニコ・ロズベルグ</font></a>、チーム・メイトのクビサらと共に4位争い集団を形成。未だタイヤ交換義務を果たしていないアロンソとウェバーはタイトル圏外／予想外の7位と8位へと落ちてしまった。<br />.....この展開は誰も考えてもいなかった。特にフェラーリ陣営はパニックに陥っていた。11周目にウェバーがピットに入ると、先行されることを恐れたフェラーリはまだタイヤの好調さを維持出来ていたアロンソを急遽ピットに入れ、トラフィックのド真ん中へと送り出してしまう。目前には自らの"クビのかかった"ペトロフが、世界王者相手に良いところをみせようと立ちはだかっていたのに、である。<br />かくして、巧さを武器に"後と順位を気にしながら"レースをしていたアロンソとウェバーは敗れた。そして、ただ純粋に速く、強くあろうとしたヴェッテルが絶対的に不利な状況から逆転王座を獲得したのである。<br />1年をかけて多くを学んだF1史上最年少王者・ヴェッテルは、確実にセナやピケのレベルに近づいた、と言って良いだろう。反対に、不要な計算を誤った時期に始めたアロンソとウェバーには、ヴェッテルに勝てるだけの強さも巧さも備わっておらず、それはハミルトンの速さとバトンの運の良さをもってしても、この若き王者には及ばなかったという証しでもある。が、終ってみれば最多勝5勝／ポール・ポジション獲得最多10回のヴェッテルが明らかに'10年F1世界王者に相応しい。そして同じ5勝のアロンソだが、その勝利の中のひとつは<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/07/post-35.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">疑惑の"チーム・オーダー事件"</font></a>によるものだ、ということも、少なからず最終結果に影響している。おめでとうセブ、君こそ真のチャンピオンだ。<br /><br />.....第17戦鈴鹿は、正直に言えばやや大味なレースだった。が、あれしか方法がなく、あそこしか場所がない、という状況で「そこで行く」という勇気と結果を見せてくれたのが彼だけだったのだから、それは正に賞賛に値する。<br />F1フル参戦初年度、つまりルーキーの<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-23.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">小林可夢偉</font></a>は"トヨタの捨て子"という逆境からスタートし、最終的に英オート・スポーツ誌による<a href="http://www.f1-stinger.com/f1-news/news/2010/12/06/011642.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルーキー・オブ・ザ・イヤー獲得</font></a>、という日本人初の快挙で初シーズンを締めた。シーズンを通じてベテランのチーム・メイト（ペドロ・デ・ラ・ロサ／ニック・ハイドフェルド）を上回り、入賞8回（最上位6位）で32点を獲得、ドライバーズ・ランキング12位。前述の最終戦で"大活躍"のペトロフ（13位／27点）、'09年GP2王者として鳴りもの入りでウィリアムズからデビューし、第18戦ブラジルではポール・ポジションを獲得してみせたヒュルケンベルグ（14位／22点）らを相手に、恐らくグリッド上で最も資金難に苦しみ、開発力も遅れていたザウバーでやって見せたところが素晴らしい。<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/08/bmw.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">BMWの撤退</font></a>、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_73.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ペーター・ザウバー</font></a>による買い戻し／FIAの救済処置にもよって'10年のグリッドにどうにか並んだこのチームは、公式名称から"BMW"の文字を消すことすら出来ず（チーム名称変更には高額の手続き料が必要）、"BMW・ザウバー・フェラーリ"という不可思議なエントリー名となった。御大ペーター曰く「スポンサーを持たない初の日本人F1ドライバー」である可夢偉は、自身がこれまでの"お土産付き"が絶対条件だった日本人F1ドライバーという枠を超え、ヨーロッパ標準レベルの連中と何の遜色もなく闘えることを証明してみせた。それどころか、近年の多大なるレギュレーション変更／サーキットの安全性追求の影で減ってしまった"オーバー・テイク"というレースの基本的な醍醐味を、今季コース上で最大限に魅せてくれるドライバーとなった。ザウバーの'10年型マシン・C29は絶対的なストレート・スピード不足に苦しみながらも、持ち前の優れたタイヤ・マネージメント能力を駆使し、レース終盤で新品タイヤでプッシュする作戦は今季ザウバー／可夢偉の得意技となり、第9戦バレンシアの終盤でアロンソを、ファイナル・ラップでセバスチャン・ブエミ（トロ・ロッソ）をブチ抜いた場面は世界中の多くのレース・ファンを熱狂させ、第17戦鈴鹿でのヘアピン・オーバー・テイク5連発は初の母国GPとしては出来過ぎなレベル。「この2週間でヤツはデ・ラ・ロサを無職にし、ハイドフェルドを苛立たせ、10万人を熱狂させやがった！」と可夢偉を評したのはデビッド・クルサード。真のエースとなる'11年、'10年GP2総合2位のセルジオ・ペレスの持ち込む潤沢な資金により、ザウバーC30が戦闘力のあるマシンとなることを祈ろう。.....そう、ザウバーの好調が2年続くことが稀な点だけが気がかりだ。<br />鈴鹿と言えば、これ以上ない低迷.....そう、開幕戦からウィングのサイズすら変更出来ない<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/07/post-33.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">HRT／ダラーラ</font></a>の駄馬、F110をねじ伏せ、母国GP／得意の鈴鹿ではそう簡単に抜かせないぜ、と言わんばかりにロータス／ヴァージンと互角に闘ってみせた<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/06/post-30.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">山本左近</font></a>が最高にカッコ良かった。今季4人のドライバーを資金難の都合に合わせてローテーションで回す、という特異な手法を用いたコリン・コレス率いるHRT。それでも実はランキング最下位は免れていた（コンストラクターズ最下位はヴァージン／最高位14位1回）。その立役者は.....最初に"切られた"インド人ドライバー、カルン・チャンドック（14位2回！）によるものだったのは皮肉である。音速の貴公子の甥、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/03/f1-2.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ブルーノ・セナ</font></a>のF1デビューは結局新人チャンドック、スポットの左近、そして4年振りのクリスチャン・クリエンらと比べ、そう目立ったものとはならなかった。<br /><br />.....皇帝は確かに帰って来た。が、勝利とまでは行かなくとも、さすがにポディウム・フィニッシュすらない復帰イヤーとなるとは、殆どの人が想像出来なかったのではないだろうか。<br />7度の世界王者、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミハエル・シューマッハー</font></a>の3年振り／40歳でのF1復帰の現実はあまりにも残酷な内容となった。昨年Wタイトルを獲得したブラウンGPをルーツに持つ新星・メルセデスGPは周囲の期待をよそに予想以上に空力特性にピーキーなマシンとなり、第5戦スペインGP時にはまだシーズン序盤にも関わらず、大幅にロング・ホイールベース化したマシン／つまり"ほぼ新車"を投入。開幕前の設計ミスをほぼ認めたかのようなドタバタ劇となってしまった。<br />肝心のシューマッハー自身は結局予選最高位5位／決勝最上位4位、72点でドライバーズ・ランキング9位となった。いや、むしろ相棒のニコが142点／予選最高位2位、決勝3位のランキング7位だったことの方が事態の深刻さを物語っていると言えるだろう。<br />同じドイツの、それも未だ勝利の味を知らない若手のニコ相手に予選／決勝を通じて5勝14敗。例え本人が良くても（もちろん良かあないだろうが）、これではファンもメディアも黙ってはいない。しかし、シューマッハーの豊富なキャリアからすればこれしきのやり過ごし方はもしかしたら簡単で、周囲の予想以上に早く来季へ向けて気持ちの切り替えが出来ているのかも知れない。いずれにしても、不発に終った今季のようなことがないよう祈る。同時に、黙ってキッチリと良い仕事をしてみせたニコにも幸運を。<br />ともあれ、今こそ言おう。おかえり、ミハエル！。<br /><br />「忘れられない場面ですか.....ああ、いつだったか、（リカルド）ゾンタを挟んでミハエル（シューマッハー）と<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_52.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">（ミカ）ハッキネン</font></a>が3台並んでコーナーに入って行った場面があったでしょ？（'00年第13戦ベルギーGP）。あれがこれぞF1！って感じでね。一番忘れられない場面ですね！」.....浜島さん、インタビューアーはきっと、ブリヂストンの14年間に渡るF1活動の中で、タイヤが重要なファクターとなった劇的な勝利とか、グッドイヤーやミシュランとの激闘について聞きたかったんだろうに、この根っからの"レース屋"はまるでただのファンのような純粋な眼をしてこう答えた。<br /><a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/06/post-5.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">'76年富士のF1イン・ジャパン</font></a>でスポット参戦し、その後慎重にじっくりと取り組んだF2プロジェクトを経て、'97年にF1に本格参入。初年度からトップ・チームへの供給がないにも関わらず（フェラーリ／マクラーレンらはグッドイヤー）高い能力を発揮し、第11戦ではデイモン・ヒル（アロウズ・ヤマハ）があわや初優勝かという快走を見せる。翌'98年、トップ・コンテンダーのマクラーレン・メルセデスと組むと開幕戦からハッキネン／クルサードが3位以下を周回遅れにする1-2フィニッシュを達成する速さを見せ、フル参戦2年目にして早くもWタイトルを獲得。GY撤退後はフランスのミシュランと闘い、フェラーリ／シューマッハーと共に黄金時代を築いた。今季最終戦までにF1通算175勝、10度の王座獲得に貢献したBSが、遂にF1を去る日がやって来た。浜島裕英本部長は「最後の年にセバスチャン（ヴェッテル）の史上最年少王座獲得に立ち会えて嬉しい」と明るく振る舞うが、BSとてこの世界不況の犠牲者、後任にピレリが決まったが、そのための時間的猶予を設け、1年前倒しで撤退発表を行ったのは、彼らなりのF1への"感謝と愛情の表れ"だと言える。そして、そう遠くない未来に、再び彼らが176勝目を挙げるところを見たいと心から願う。お疲れさま、ありがとう、ブリヂストン。<br /><br />新設6年目を迎え、今季は"史上最悪のドングリの背比べ"と言われた'10年GP2選手権だが、あれだけ第1レースを制したパストール・マルドナド（5勝／全て第1レース）が真の王者であることに疑いはない（ちなみにGP2は第2レースはリバース・グリッドからのスタートとなる）。マルドナドは来季ウィリアムズからのF1デビューも決定、初年度から大暴れを期待しよう。ランキング2位となったペレスは母国・メキシコからの巨額の資金と共にザウバーからデビュー、'11年期待の新人ふたりである。ちなみにGP2も'11年シーズンはピレリ・タイヤを使用する。<br /><br />"Fポン"ことフォーミュラ・ニッポンはブラジルのジョアオ・パオロ・デ・オリベイラ（INPUL）が1年浪人して今季初タイトル獲得。Fポンは昨年のロイック・デュバルに続いて2年連続の"ガイジン王者"となった。ちなみにランキング2位はアンドレ・ロッテラー、3位にデュバルとトップ3に日本人ドライバーの名前がない（4位が小暮卓史）。しかし今季はオリベイラ（2勝）以外誰も複数勝利を挙げられず、新たなレギュレーションであるボーナス・ポイントも上手く活かされたとは言い難い。ルーキー・オブ・ザ・イヤーは山本尚貴（NAKAJIMA RACING）が獲得したが、表彰台なしの地味なタイトル獲得となった。<br />正直、マシンはなかなかカッコいい。あとは、運営側の"微妙なレース・コントロール感"の有無である。かつてのファン／GTなど他カテゴリーのファン以外にも、未知の新たなファン層を獲得出来るチャンスがある筈だ。最大の問題は.....今年最も注目されたのが、例の第3戦富士での<a href="http://www.koheihirate.com" target="_blank"><font color="#ff00ff">平手晃平</font></a>（INPUL）の"表彰台プロポーズ"だった、ということ.....ま、それ自体は目出たい。晃平&amp;織美さん、おめでとう！。<br /><br />MOTO GP開幕戦、カタールGP・MOTO2クラス／初優勝時の表彰台のビデオを何度観返しても、中央で人懐っこく微笑む彼が既にいないことが理解出来ない。<br />9月5日の第12戦サンマリノGPで、我らが日本の期待の星、<a href="http://www.shoya48.com/" target="_blank"><font color="#ff00ff">富沢祥也</font></a>が事故死。享年19歳。筆者の今年最初のガッツ・ポーズの要因を作った張本人は、愛車スッターと共に逝ってしまった。冗談だろう？、ようやく世界レベルで好感触を掴めて来たところじゃないか。<br />また忘れられないゼッケンが出来てしまった。"祥也"を意味する48を、オレ達も大切にする。<br /><br /><br />.....さて、この原稿を書いている時点で、どうやら'11年のF1世界選手権には<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_101.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ロータス</font></a>が2チームあるらしい（.....）。何が起こるか解らないのがレースであり、F1。今から3月の開幕戦が待ち遠しい。<br />ランダムな更新となってしまいましたが、今年1年お付き合い頂き、ありがとうございました。STINGER村の住人とレースが大好きな皆さんの2011年が良い年となりますように。<br /><br /><br /><i>「セブこそチャンピオンに相応しい」F1最終戦アブダビGP終了後／マーク・ウェバー</i></font></p>
<p><em><font color="#3e6b3a"></font></em>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
        
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    <title>追悼</title>
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    <published>2010-10-05T13:59:35Z</published>
    <updated>2010-10-05T14:06:34Z</updated>

    <summary>長きに渡り日本のモータースポーツ振興に力を尽くされた偉大なる大先輩・西山平夫さん...</summary>
    <author>
        <name>加瀬竜哉</name>
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        <![CDATA[<font color="#3e6b3a">長きに渡り日本のモータースポーツ振興に力を尽くされた偉大なる大先輩・西山平夫さんに、謹んで哀悼の意を表します。<br />ありがとうございました。</font>]]>
        
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    <title>スカラシップの意義を問う</title>
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    <published>2010-08-04T01:54:01Z</published>
    <updated>2010-08-04T01:53:28Z</updated>

    <summary>今季、ダラーラ製のシャシーにコスワースのエンジンでF1に初参戦したHRT（ヒスパ...</summary>
    <author>
        <name>加瀬竜哉</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/">
        <![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">今季、ダラーラ製のシャシーに<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_51.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">コスワース</font></a>のエンジンでF1に初参戦したHRT（ヒスパニア・レーシング）。5月のダラーラとの契約終了の報も驚かされたが、去る7月21日には<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/11/post-16.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">昨年いっぱいでF1を撤退したトヨタF1チーム</font></a>がHRTと提携する、という話がイタリアで報じられた。元々トヨタ（TMG／トヨタ・モータースポーツGmbH）はマシン・デザインやエンジン開発分野でのサービスを中心とした新たな業務形態に関しての情報を公開していたが、HRTはこのシステムに絡むのではないかと報じられている。確かにトヨタはF1参戦最終年となった'09年、勝利こそ掴めなかったものの第4戦バーレーンGPでは予選フロント・ロウを独占し、表彰台フィニッシュ年間5回達成の潜在能力を持つマシンであるTF109をベースとした幻の新車、TF110を所有している。このマシンは当初今季のF1参戦へエントリー外から申請を行っていたステファンGPによって運営され、ドライバーには元<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_28.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ウィリアムズ</font></a>・トヨタでTDP（トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム）所属の<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/09/post-9.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">中嶋一貴</font></a>が有力候補として上がっていた。しかし最終的にステファンGPにはFIAからのエントリーが認められずこの話はなくなったが、トヨタ側はF1撤退発表以前に開発を続けていた'10年用の新車をスクープ的な扱いで公開、他社との業務提携が充分に可能な状態であることを示そうとしていた。その後も幻のTF110に関しては元GP2チームのデュランゴとの提携話や、'10年からタイヤ供給を行うピレリのテスト用車両の候補に上がるなど、多くの噂が出ている。もっとも、だいたいわざわざ新たに真っ赤にペイントされた"幻の新車"などという公開の仕方にトヨタの下心が丸出しであり、明らかに高価な資金を用いて"作ってしまった"TF110を何とか無駄にせず活用しようと必死な状況が見て取れる。<br />更に去る7月21日、トヨタの山科忠専務が山梨県富士吉田での記者会見でWRC（世界ラリー選手権）へのカムバックを匂わせる発言を行った。現状ではあくまでも「WRC及びWTCC（世界ツーリング・カー選手権）への参戦に向けての調査を開始した」との表現だが、'09年の突然のF1撤退劇から僅か数ヶ月のこの時期、例えトヨタの業績そのものが回復基調にあるとは言え、時期的に見てもある意味衝撃的な発言と言える。この他DTM（ドイツ・ツーリング・カー選手権）への参戦も候補に入っているとされるが、あくまでも市販車ベースの国際レースへの参戦／復帰案は、完全にヨーロッパでの量販車販売を強化する狙いであり、性能と知名度勝負のF1は高額な参戦費用を理由にそこから落とされた。8年間／140戦やって勝てなかったF1を見切り、かつてはタイトルを獲得したラリー分野での復帰はトヨタの現状と今後を予想するには、極めて解りやすい状況と言える。事実、こうしてトヨタが海外カテゴリーで王座獲得の実績のあるラリーへの興味、またTMGの木下美明社長はグループA時代にWRC用ののエンジン開発に携わった大のラリー・ファンであり、こうした噂の出所も落ち着きどころも納得の行く範囲内だと言える。<br /><br />.....とまあ、昨年いっぱいでF1を撤退したトヨタのモータースポーツ部門にいくつかの動きが見える昨今、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_78.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ザウバー</font></a>・<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/06/post-29.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェラーリ</font></a>で連続ポイント獲得などの活躍を見せ、既に来季のトップ・チームへのシート争いにも名を連ねるようになった<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-23.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">小林可夢偉</font></a>。彼のレーシング・スーツには今もTDPのワッペンが取り付けられていることからも解るように、現在でも可夢偉はTDP所属のドライバーである。「可夢偉／一貴らの支援は継続／TDPは縮小」と言うのが昨年11月のトヨタF1撤退会見での山科専務の言葉だが、現状TDPはいったいどのような活動状況なのだろうか。<br /><br />'10年、TDPは'95年にスタートしたFTRS（フォーミュラ・トヨタ・レーシング・スクール）を基幹プラグラムとし、世界及び日本のトップ・カテゴリーで活躍出来るレーシング・ドライバーの育成／正しいドライビング教育によるモータースポーツ底辺の健全な拡大、を謳い文句として活動中である。もちろん、成績優秀者には翌シーズンのレース参戦のスカラシップ権が与えられ、全面的及び一部の支援が約束される。<a href="http://ms.toyota.co.jp/jp/news/other/10tdp_01.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">TDPのウェブサイト</font></a>には"主な卒業生"として可夢偉（F1世界選手権）、一貴（未定）の他、ワールド・シリーズ・バイ・ルノー参戦中の国元京佑、フォーミュラ・ニッポン参戦中の平手晃平、石浦宏明、大嶋和也、井口卓人、全日本F3選手権参戦中の蒲生尚弥、国本雄資ら若手の名が連ねられている。<br />そして、現状で元来FTRSが目指していたF1世界選手権への参戦を果たし、継続出来ているのはご存知の通り可夢偉のみで、昨年までウィリアムズ・トヨタのレギュラーだった一貴は前述のような経緯で現在はシート浪人中である。つまり、TDPのスカラシップに於いて最大のメリットだった"F1に於けるトヨタ関連のシート確保"というご褒美は完全に失われ、昨年後半2戦の代打出場で見せた可夢偉の走りが今季のザウバーとの契約に繋がった以外（もっとも、これも<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_78.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ペーター・ザウバー</font></a>が個人的に可夢偉を評価しての結果である）、F1を目指してTDPに所属して頑張って来たドライバーには既に"優勝商品"がない状況、と言える。現状、TDPに出来るのは有望なドライバーを無関係なチームに紹介することだけとなり、少なくともF1に於いてその効力は恐ろしく低くなってしまった、と言うことが出来る。<br /><br />.....そもそも、スカラシップ精度が齎す恩恵とはどういったものなのか。最近、このスカラシップに関して興味深かった動きが<a href="http://www.kasetatsuya.com" target="_blank"><font color="#ff00ff">筆者</font></a>にはふたつあった。ひとつは、ニュージーランド出身の若手ドライバー、ブレンドン・ハートレイが<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-24.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">レッドブル</font></a>のジュニア・チームから解雇された、というニュースである。<br />'89年生まれ／若干20歳のハートレイは13歳という若さでニュージーランド・フォーミュラ・フォード選手権を制した若手有望株で、'05年に現トロ・ロッソのハイメ・アルグエルスアリらと共にレッドブルのドライバー・サーチ・プログラムに合格し、レッドブルのスカラシップ・ドライバーとなった。昨年にはレッドブルF1チームのリザーブ・ドライバーに就任する話が出たが、参戦中のフォーミュラ・ルノー／ユーロF3へ集中したいという本人の意向でこれを辞退、代わりにアルグエルスアリがF1へとステップ・アップした。ところが今季、ワールド・シリーズ・バイ・ルノーで同僚のダニエル・リチャルドにレース結果で及ばず、去る7月21日にレッドブル側からハートレイの放出が発表されたのである。.....ハートレイは筆者個人的には注目のドライバーであった。ま、その多くの理由はイケメンの上にブロンドの髪を肩まで伸ばしたそのルックスが若き日の<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_09.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ロニー・ピーターソン</font></a>（F1ドライバー）やチープ・トリックのロビン・ザンダー（歌手）を彷彿とさせるからだったのだが、ほぼレッドブルによって将来を約束されたも同然だったハートレイがこうしてシーズン中に解雇されるというニュースには驚きを隠せなかった。が、目線を変えれば現在のレッドブルがそれだけ"レベルの高い"チームであるということの表れでもある。うかうかしていてはせっかく掴んだチャンスを棒に振りかねない、という良い例と言える。<br />もうひとつは昨年の第10戦ハンガリーGP予選での事故で<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/forza-felipe-siamo-con-te.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">長期欠場を余儀なくされたフェラーリのフェリペ・マッサ</font></a>の後任ドライバー人事と、その後のフェラーリの対応により誕生した若手育成プログラム"フェラーリ・ドライバー・アカデミー（FDA）"のエース、ジュール・ビアンキの骨折～長期離脱事故である。<br />まず"フェラーリ・ドライバー・アカデミー"の発足について。当初フェラーリは第11戦ヨーロッパGPに<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/iceman.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">キミ・ライコネン</font></a>のチーム・メイトとして'06年に引退し、当時フェラーリのアドバイザーだった<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミハエル・シューマッハー</font></a>の電撃復帰を模索した。しかしシューマッハー本人は数ヶ月前のバイク事故の後遺症もあってこの復活は叶わず、結局フェラーリはふたりいるテスト／リザーブ・ドライバーの中から'00年から10年に渡ってテスト・ドライバーを務める<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/08/post-8.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルカ・バドエル</font></a>の起用を決定した。しかし10年間の実践ブランクか年齢から来るものかバドエルは全く近代にF1に付いていけず、フェラーリは第13戦地元イタリアGPからフォース・インディアから現役レース・ドライバーのジャンカルロ・フィジケラを引き抜いて起用。直前の第12戦ベルギーGPではチーム初のポール・ポジションを獲得し、レースでもライコネンに次ぐ2位でフィニッシュするという大活躍を見せたフィジケラだったが、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/05/kers.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">KERS</font></a>搭載のフェラーリF60がナーバスなマシンだったからか、名手フィジケラを以てしてもポイント獲得ならずでシーズン終了。この一連の流れにより、長く若手ドライバーの育成に興味を示して来なかったフェラーリが遂にスカラシップ制度"FDA"の設立を決断。ジュール・ビアンキを筆頭にGP2やイタリアF3参戦中の若手ドライバーを中心とした、"勝者優先主義"フェラーリの初の若手ドライバー育成プログラムがスタートした。<br />この動きは実に明確なものだった。何故なら、前述のレッドブルがセカンド・チームのトロ・ロッソも含め下から続々と将来有望な若手を輩出し、育てて来ている経緯も含め、'08年F1世界王者、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/f1-3.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルイス・ハミルトン</font></a>は完全に<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/m.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マクラーレン</font></a>の秘蔵っ子であり、デビュー初年度からタイトルを争い、翌2年目には堂々と王座を獲得してみせた。それも、最終戦までタイトルを争ったポイント上のライバルはフェラーリのマッサであった。それに比べ、トップ中のトップ・チームであり、伝統と格式を重んじる天下の常勝フェラーリには"若手育成"という概念がそもそも存在せず、他チームでの活躍で既にチャンピオン争いが出来ると見なされたドライバーが移籍して来る、言うなれば"敷居の高いチーム"だった。そんなフェラーリが周囲を見渡し、且つ自らにその必要性が迫った際にこの若手スカラシップ制度の設立を早期決断したのは非常に明快な動きだったと言える。結局FDAは'09年ユーロF3王者でGP2参戦中のビアンキを筆頭に、若干11歳のカナダ人、ランス・ストロールら数名をスカラシップ・ドライバーとしてバックアップし始めた。しかしその矢先、'10年第12戦ハンガリーGPのGP2・第1レースでビアンキが大クラッシュに合い、第2腰椎骨折で入院生活を余儀なくされてしまう。これにより、フェラーリはビアンキのFDAからの一時的な離脱を発表。奇しくもビアンキが運ばれたのは1年前にこのFDA設立のきっかけともなったマッサが運ばれたAEK病院であった。ビアンキの1日も早い回復を祈りたい。<br /><br />さて、我が日本のスカラシップ制度と言えば忘れてはいけないのがホンダ、SRS（鈴鹿レーシング・スクール）である。こちらも'08年でのF1撤退を受け、トヨタ同様最高峰カテゴリーへの参戦というご褒美はない。現状、ホンダのスカラシップで最も最高峰に近い位置にいるのは、それでもF1浪人を経てIRL（インディ・レーシング・リーグ）へと移籍した<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/02/post-22.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">佐藤琢磨</font></a>だと言える。<br />今思えば、日本のフォーミュラ・スカラシップの頂点は'01年であった。この年、イギリスF3を佐藤琢磨、ドイツF3を金石年弘、フランスF3を福田良がシリーズ制覇するという"事件"が起きた。そう、日本の若手ドライバー達が海外で暴れ回り、遂にヨーロッパの3大F3選手権でチャンピオンとなったのである。当時、日本ではこのスカラシップ制度も含め、若手ドライバーがキャリアの中堅にとつにゅうする以前、つまり従来よりももっと"早くから"海外／ヨーロッパで武者修行する必要性が訴えられていた。日本人F1レギュラー・ドライバーのパイオニアである<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_07.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">中嶋悟</font></a>（'87～'91年／予選最高位6位、決勝最高位4位、最速ラップ1回）を始め、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_78.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">鈴木亜久里</font></a>（'88～'95年／予選最高位6位、決勝最高位3位）、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_107.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">片山右京</font></a>（'92～'97年／予選最高位5位、決勝最高位5位）ら先駆者の成績を上回れる人材育成のため、多くの若手ドライバー達が海外へと打って出た。特に前述の3人の内、琢磨は'02年に<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_59.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジョーダン</font></a>・ホンダからF1デビューを飾り、'04年にはホンダ・ワークスの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_95.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">BAR</font></a>・ホンダで予選最高位2位、決勝最高位3位の活躍を見せた。しかし琢磨はホンダがBARを買収／ワークス・チームとなった際に、エース・ドライバーの<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/07/post-34.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジェンソン・バトン</font></a>（同年予選最高位1位、決勝最高位2位4回）との成績比較によりチームから弾かれ、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/07/post-32.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">スーパー・アグリ・チーム</font></a>へと移籍を余儀なくされた。ホンダはフェラーリからルーベンス・バリチェロを迎え入れ、ワークスとして本気でタイトルを取りに行く覚悟が伺い知れたが、結果的には惨敗に終わり、景気低迷の煽りもあって<a href="http://www.honda.co.jp/news/2008/c081205.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">遂に'08年にF1撤退を決意</font></a>する。当然この時点でホンダ系列のチームはF1のグリッド上に存在しなくなり、後ろ盾を失った琢磨は自らのマネージメントと共にこれまでライバルだったチームとシート獲得を目指して活動しなくてはならなくなった。テスト結果などからも最終的に最も有力と思われていた'09年のトロ・ロッソ加入の話が消え、'10年の新規参入チームの中からロータスと最後まで交渉していた琢磨だったが、結局移籍は叶わず、インディ・カー・シリーズへの転向を決めたのである。<br />つまり、既に日本のホンダ／トヨタという2大"元"ワークスのスカラシップ制度は、既にその効力を失っていると言っても過言ではない。前述のヨーロッパ3大F3制覇者の内、金石は現役のGT選手権ドライバー兼、そのSRS-Fの講師を務めている。一時はBARのテスト・ドライバーまで行った福田は第一線を退き、現在レーシング・ドライバーのマネージメント関係の仕事を行っているようで、'5月に鈴鹿で開催されたカート・ワールド・カップに姿を見せた。現在進行形の選手としては、その後フォーミュラ・ニッポンなどで活躍する松田次生に次のチャンスがという声もあったが結局実現には至っておらず、日本からF1世界選手権へと打って出るのは現状極めて難しい状況となってしまっているのである。<br />ちなみに、現在可夢偉と共に日本代表としてF1に参戦する<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/06/post-30.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">山本左近</font></a>（HRT）は'00年のSRS-F受講生であり、同年全日本カート選手権で3位、翌年全日本F3選手権で4位となり、同時に海外武者修行をスタートさせている。ただし経緯は同じであっても、左近は独自のマネージメント活動で自らの道を切り開いて来た。少なくともスパイカー／<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_32.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルノー</font></a>／HRT加入の経緯に日本の自動車メーカーが絡んでいないことは以前のコラムでも紹介した通りであり、既にスカラシップ制度が"崩壊した"と言える現在の日本に於いて決して特殊なスタイルとは言い難い。僅か20数席しかないF1のシートを得るために熾烈な争いが世界中で行われているのである。<br /><br />さて、ではこのモータースポーツ・スカラシップ制度に未来はないのか。<br />スカラシップはあくまでも企業によるバックアップであり、ドライバーから見ればその対象がパーソナル・スポンサーなのかF1関連メーカーなのかの違いでしかなく、つまりメーカーがF1に存在してさえいれば極めて容易な道だったと言える。しかし結果的に.....例えばチーム・メイトの<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/08/post-7.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ニコ・ロズベルグ</font></a>に惨敗した中嶋一貴（ウィリアムズ・トヨタ）はトヨタ・エンジンごとチームに見切りを付けられた。これはヨーロッパの名門メームから日本メーカーのスカラシップ／連れ子、という概念を否定された、と言わざるを得ない。そしてここには日本／トヨタの絶望があるが、反面、'09年最終2戦で彗星のごとく現れた可夢偉は経験不足などの要素を全て払拭する快走を見せ、堂々'10年のザウバーのシート獲得をやってのけた。人、タイミング、成績.....多くの要素が絡まる中、メーカーの思惑と選手の能力が見事一致した際、それらは完璧に機能するのだろう。ただ、日本にがまだその組み合わせが到来していないのだ。そして、スカラシップはその少ないチャンスを大きく広げてやれるチャンスであり、その場を奪ってしまった企業は今後、そのドライバーの才能をいったい何処で計り、伸ばすのか。"育成"は先行投資なくては成り立たない。<br /><br />.....余談だが、ホンダの小会社、ホンダ太陽・大分工場は障害者の技術で成り立っている。ナンバープレートのランプ製造ではシェア9割を誇る。しかしそれは障害者の雇用などの問題解決とは違う、別の目的によって成り立っており、細かくシビアな作業を、仮に時間がかかってでも丁寧に行う、という理念から来るもの。つまり、目的は儲けではない。'78年、この工場を視察した<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_69.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">本田宗一郎</font></a>が「ホンダもこういうことが出来る会社にならなきゃいけない」と共鳴し、子会社化した。これはある意味先行投資であり、損得を超えた"先見の明"である。そしてそれは本田宗一郎というカリスマが、高度経済成長期という時代に生きたからこその出来事であり、エピソードである。<br />.....もっとも、何処の自動車メーカーもクルマの個性を訴える筈のTVCMの最後に揃って「減税！補助金！」とか子供に言わせてるような現在ではとても考えられない話だが。<br /><br /><br /><i>「トヨタの若手育成プロジェクトには、様々なプログラムが用意されており、レース参戦前／参戦中もレーシングドライバーとして必要な資質を身に付けるためのサポートを行っていく」／TDP</i></font></p>
<p>&nbsp;</p>]]>
        
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    <title>繰り返された&quot;茶番&quot;</title>
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    <published>2010-07-26T10:56:06Z</published>
    <updated>2010-07-26T11:03:27Z</updated>

    <summary>「これは2002年のあの&quot;忌まわしい一件&quot;の再現だ。そして、あの時はルールがなか...</summary>
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        <name>加瀬竜哉</name>
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        <category term="タチの悪いテレビ観戦方法" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<p><font color="#3e6b3a">「これは2002年のあの"忌まわしい一件"の再現だ。そして、あの時はルールがなかった。今は明確に違反行為だ。そして、今回はあの時よりも10倍も悪いことだと思うね」BBCでTV解説を行っている<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_59.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">エディ・ジョーダン</font></a>は怒っていた。2002年の忌まわしい一件とは、オーストリアGPでトップを行くルーベンス・バリチェロに対し、後方にいる<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ミハエル・シューマッハー</font></a>を先行させるよう<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/06/post-29.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェラーリ</font></a>がピットから無線で指示した、所謂"<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_26.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">チーム・オーダー事件</font></a>"のことである。<br />'10年第11戦ドイツGP、フェラーリはまたもレース中の順位入れ替え操作を行った。が、今回はチーム監督からではなく、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/forza-felipe-siamo-con-te.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェリペ・マッサ</font></a>担当エンジニアのロブ・スメドレイから直接、それもフェラーリ首脳に対しての嫌味をたっぷりと込めた内容のメッセージが発せられたのである。今回は再び起きたこのフェラーリのあからさまな違法行為と、フェラーリ内部で起きている歪みについて検証する。<br /><br />レースは予選3番手のマッサの絶妙なスタートで始まった。ポール・ポジションの<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/goseb.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セバスチャン・ヴェッテル</font></a>（<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-24.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">レッドブル</font></a>）と、2／1000秒差でフロント・ロウに並ぶフェルナンド・アロンソが激しいチャージの応酬をしている間、1コーナーをアウト側から駆け抜けたマッサがトップに立ち、開幕戦以来のフェラーリ1-2態勢となった。序盤はマッサのペースでレースが進むが、若干ペースの落ちたマッサにアロンソが追いつき始めた48周目、スメドレイからマッサに対して無線が飛んだ。<br />「フェルナンドは君よりも速い。このメッセージの意味が解るか？」<br />翌49周目、ターン6後の加速でマッサは露骨にスロー・ダウンし、アロンソを先行させた。そして再びマッサにスメドレイからの無線。<br />「良くやった。ありがとう.....すまない」<br />.....TV放送の中にマッサからの返答の場面はなかったが、恐らくマッサは無言で事態に対応したのだろう。アロンソは開幕戦以来の勝利となり、フィニッシュ後にチームへの無線で「フェリペは3秒ほど遅かったが、ギア・ボックスに問題でもあったのか」と訊ねてみせた。マッサは相変わらず何も言わなかったが、チームからは「君はチームに良く貢献してくれた。その件についてはあとで話をしよう」と意味深な言葉を受けた。パルクフェルメにマシンを止めたふたりは軽く抱擁し合い、表彰台に上がる直前にはチーム監督の<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/05/post-1.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ステファノ・ドメニカリ</font></a>がふたりを労うが、ここでもマッサの表情は硬いまま。形式的なシャンパン・ファイトを終え、トップ3インタビューでボス・コンスタンデュロイから「あの時何があったのか」との質問に「ノー・コメントだ」と答え、その後も「僕はチームのために働いている」と繰り返した。ドイツGPのスチュワードはこの一件を重要視し、フェラーリのスタッフへの事情聴取などの調査に乗り出し、最終的に国際スポーティング・コード第39条（チーム・オーダー禁止）／第151条（スポーツ信用の失墜）の違反により100万ドルの罰金を言い渡した。またこの件の最終的な結論は、今後世界モータースポーツ評議会（WMSC）に委ねられる。<br /><br />F1世界選手権では現在、レース中のチームによる順位操作は禁止されている。そして今回の件には、冒頭のジョーダンの発言のように、そのきっかけとなった伏線が存在する。若いファンのために、ここでその事件をもう1度検証しよう。<br /><br />'02年第6戦オーストリアGP。この年、フェラーリはシューマッハー／バリチェロのコンビで221点を稼ぎ出し、シーズン中盤の第11戦フランスGPで早々とシューマッハーがタイトルを決め、第13戦ハンガリーGPでは4年連続のWタイトルを確定した。シューマッハーは序盤5戦で4勝／44点、ランキング2位の弟、ラルフ・シューマッハー（<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_28.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ウィリアムズ</font></a>・<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/08/bmw.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">BMW</font></a>）は1勝／20点、シューマッハーのチーム・メイト、バリチェロは6点だった。フェラーリは完全にシューマッハーのタイトル獲得を前提にシーズンを送っていた。レースはポール・ポジション・スタートのバリチェロがそのままトップを快走、シューマッハーは2番手。終盤67周目、フェラーリの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_116.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ロス・ブラウン</font></a>からバリチェロに対し、無線でメッセージを発する。「スロー・ダウンし、ミハエルに順位を譲れ」バリチェロは困惑し「本気で言ってるのか」と聞き返す。今度はチーム監督の<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/post-6.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジャン・トッド</font></a>から「それがチーム全体のためだ」と返答。66周目、バリチェロから「もう1度聞く。僕に優勝するチャンスはないのか」チームの返答はなかった。その答はバリチェロ自身の行動に委ねられ、そしてバリチェロはファイナル・ラップの最終コーナーで露骨にマシンをスロー・ダウンさせ、シューマッハーに勝利を譲ったのである。表彰台ではシューマッハーはバリチェロを真ん中に立たせ、自身は2位のトロフィーを受け取るなどの"茶番"を見せた。グランド・スタンドからはブーイングが起こり、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/06/ff.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">FIA</font></a>はこの件を調査、最終的に翌年からのチーム・オーダー禁止が正式に決まったのである。<br /><br />モーター・スポーツという何もかもが特殊なジャンルに於いて、こうした論議は数限りなく行われて来た。'50年のF1世界選手権開幕当時、自動車レースはあくまでもメーカーの競争だった。そのため、F1でもチーム／コンストラクターによる順位操作は当たり前のように行われ、場合によってはトップを走るセカンド・ドライバーがマシン不調に悩むエース・ドライバーのためにレース途中でマシンを降り、エース・ドライバーに自らのマシンを献上することもあった。それが歴史と共に徐々にヒューマン・スポーツ化して行き、最終的に同じチームであってもドライバー同士は正々堂々と順位を争うことが暗黙の内に求められた。それが明確にルール化されたきっかけが、'02年オーストリアGPだったのである。よって、現在はチーム間による順位操作は違反であり、実際ペナルティの対象と成り得る。<br />とは言え、'02年以降これまでこうしたチームによる順位操作が全くなかったわけではない。FIAがチームに求めたのは、少なくとも観戦者／TV視聴者ががっかりすることのないよう、スタイリッシュに行うことだった。つまり、解らないように行うのであればお咎めはない、というものである。解りやすい例で言えば、チームからの無線指示ならば"暗号"や"隠語"を用い、露骨に順位操作を行ったと解らなければ特に問題にはしない。例えば「フェリペ、"ミクスチャー"が"R-5"だ。解るな？」とか言っておけば、少なくともそれが「フェリペ、フェルナンドに譲るよう指示が出た。解るな？」という意味だという証拠はなく、チームもあとからいくらでも言い訳が出来る。しかしそれを無線やサイン・ボードを用いて世界中のTV視聴者に解るようにやってはスポーツとして成り立たない、という概念に基づいているのである。<br /><br />これまで筆者は何度かこういった件を紹介する際、野球で言う送りバントや犠牲フライ、アメリカン・フットボールに於けるオフェンダー／ディフェンダーなどを例にあげて来た。つまり、多くのスポーツに自己犠牲による戦略が存在しているにも関わらず、何故自動車レースでは問題にされるのか、というハナシだ。<br />野球では1点取るためにオマエは送りバントしてアウトになって来いと監督に指示され、見事にやってのけた選手には拍手が贈られ、勝利への貢献度が評価される。フットボールのディフェンダーは初めから防御要員であり、攻撃時には出番すらない。が、それを非難する者も当然ながらいない。しかし、例えば野球では当たっている打者を故意にフォアボールで歩かせる"敬遠"が非難の対象となることがしばしばある。しかしそれは場面によってケースも違うが、試合全体から見れば駆け引きのひとつでしかなく、これがルール改正に影響を及ぼすことはない。しかし、セカンド・ドライバーのバリチェロがエースのシューマッハーに順位を譲る、という行為が事件に発展し、ルールが変更されたのは事実である。こうした背景には、ただでさえ人的貢献度に疑問符の付くモーター・スポーツを、これ以上ヒューマン・スポーツから遠ざけたくないという運営社側／FIAの思惑が存在する。<br />最終的にはヒューマノイドがドライブしても良い筈の自動車レースから、世界各国を代表するトップ・ドライバーがいなくなってはレースがスポーツ・イベントとして成立しないからだ。いつだってそこにはスター選手の存在が不可欠で、それはシューマッハーであってバリチェロではない、というのがフェラーリの見解だった。関係者はそれを事実として受け入れつつも、明確なルール化によって管理しなくてはならなかった。そうでなければ、素晴らしいスタート・ダッシュでトップに立ったドライバーに、オープニング・ラップから「OK、10周目までにチーム・メイトに順位を譲るんだぞ」なんて無線が飛んではファンも応援のしようもない。チーム・オーダー禁止令は、こうしたF1のスポーツ面で大きな意味を持つレギュレーションなのである。<br /><br />そして今回の問題再燃には、もうひとつ興味深い背景がある。'02年の際にはチーフ・ディレクターのブラウンとチーム監督のトッドがバリチェロの説得にあたった。しかし今回、このやりとりの声の主はマッサ担当エンジニアのスメドレイのみ、という点が興味深い。そしてスメドレイは、全世界のTV視聴者、そしてレース・スチュワードに聞かれていることを承知で、わざとマッサに「すまない」と詫びてみせたのである。<br />F1に限ることではないが、チームにふたりのドライバーがいれば、それに伴い異なるふたつのレーシング・チームが存在することになる。彼らはもちろん同一チームのチーム・メイト同士だが、最も身近なライバル同士でもある。特にここ数戦でチーム・メイト同士の緊張感が高まっているレッドブルでは、ヴェッテルと<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-25.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マーク・ウェバー</font></a>の担当メカニック達がピット内でも火花を散らしており、チームのレベルの高さと運営の難しさが話題となっている。特にエースとセカンドの差が明確なチームとそうでないチームもあるが、同一チーム内でこうした激突が起きるのは当然のことでもある。そして、各ドライバーには個別に担当のレース・エンジニアがおり、今回の主役であるスメドレイはマッサ担当、ちなみにアロンソ担当はクリス・ダイアーである。<br />スメドレイは明らかに緊張した声で、ゆっくりとマッサに告げた。「fernado is Faster Than you」.....この時スメドレイは明らかに困惑していた。恐らく、ドメニカリを始めとしたチーム首脳陣と、ペースの落ちて来たマッサと、後方にいるランキング上位のアロンソの順位をどうするかで散々揉めたあとであろうことは容易に想像出来た。自らもこの決定に納得の行かないスメドレイは、決して多くの人々にこれがチーム・オーダーであると悟られまいとしたとはおよそ思えない口調でマッサに指示を行ったのである。そしてとどめのひとこと「sorry」.....マッサは恐らく'02年のオーストリアGPでのバリチェロと同じ心境だっただろう。ただし、マッサの対応は紳士的であり、そして精一杯のものだった。ターン6の加速で露骨に緩めたアクセリングを、FIA国際映像はリプレイで映像公開した。そのやりとりの全てが証拠となり、レース後のフェラーリのピットは各国のインタビューアーでごった返し、ドメニカリは対応に追われた。ドメニカリは「あれはマッサが自分で判断したこと。我々は単に後のフェルナンドの方が速いことを伝えただけ」としらばっくれ続けた。レース後、おそらくスメドレイはフェラーリ上層部からキツイ一発を食らっただろう。それは、マッサと一心同体となったスメドレイの人間らしさと、そして残念ながら欠けていると言わざるを得ない"プロフェッショナリズム"による。つまり、この件はフェラーリというトップ・チームにあるまじき茶番劇であると同時に、極めてヒューマニズムを感じさせる一件だったとも言える。これによりフェラーリ内部に所謂"内紛"が起こり、今後のレース戦略にも大きな影響を与えることは間違いない。<br /><br />'02年の際、フェラーリはシーズン序盤から明らかに圧倒的優位にいた。よって、何も第6戦の時点でキャリア2勝目を目指して最高の走りを見せていたバリチェロを後退させずとも、フェラーリは早期に易々とWタイトルを獲得出来た筈だった。しかしフェラーリは徹底した非情な決断を行い、結果的に最高のシーズンを送ったのも事実である。<br />今回のケースではフェラーリはタイトル争いの崖っ淵にいた。開幕戦の1-2フィニッシュ以降良いところがなく、エースのアロンソはランキング首位の<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/f1-3.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルイス・ハミルトン</font></a>（<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/m.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マクラーレン</font></a>）から47点離された5位。シーズン後半へ向けてひとつでも多く勝ちたい場面だったことは間違いない。そしてフェラーリは決断した。しかし、内部の人間の心情は正直だった。<br /><br />ドイツGP決勝の翌日（7月26日）、昨年のハンガリーGP予選でマッサが重傷を負った事故以来、丁度1年が経過した。マッサは入院していたブタペストのAEK病院を訪れ、自らの命を救ってくれた多くのスタッフとの再会を果たした。「あれは僕のキャリア、いや人生に於いて最も重要なことだった。人生というものについて深く考えさせられたんだ。あれから1年経って、僕はこうして再び優勝戦線に復帰することが出来た。これはとても意味のあることなんだ」<br />'09年シーズンを棒に振り、'10年シーズンも中盤まで来て、ようやく会心のスタートでレースをリードし、やっと優勝戦線に帰って来たフェリペを待っていたのは残酷なチームの扱いだった。しかし、あのままレースがチーム・オーダーなしで続行されていても、マッサはアロンソに抜かれていたか、またはバトルとなって2台とも戦線離脱となる危険性もあったのは事実である。今シーズン、チーム・メイト同士の"無用なバトル"が話題になっていることはフェラーリも百も承知である。第7戦トルコGPで、レッドブルのふたりは同士討ちによるリタイアで勝てるレースを逃し、明らかにレース・ペースで劣っていたマクラーレンに1-2フィニッシュを奪われた。マシン性能とアップグレードが上手く機能し、トップを走れるレースでチーム・メイト同士のバトルはチームにとっても大きな危険性を伴う。それが許されない状況で、既にフェラーリは露骨にアロンソをエース／マッサをセカンド、とカテゴライズした。もちろんそれは元々チーム内でも決まっていたことなのだろうが、こうして公の場であからさまな形でそれを宣言した、と言える。つまり、今後同じような状況になった際、世界中のファンはその無線のやりとりに釘付けになる、ということでもあり、極論ではあるが、マッサのファンにとってはアロンソが前にいる限り、マッサの優勝は許されないものなのだろうという予測の元にレースを観戦しなければならない。この件に関し、<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_101.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ロータス</font></a>のマイク・ガスコインは「もっと賢くやれば良かったのさ。チーム・オーダーは避けられないものなんだから」と笑い飛ばし、レッドブルの<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-24.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">クリスチャン・ホーナー</font></a>は「マッサは良い仕事をしていた。レギュレーションはハッキリしている。つまり、許されない行為だ」と不満を露にした。マクラーレンのマーティン・ウィトマーシュは「我々はふたりのドライバーにレースをさせる。良い時も悪い時もあったが、それが我々のやり方だ」と意見した。ライバル達にも思い当たる部分はあり、そして怒りもある。その全てのバランスの上に、モーター・スポーツが存在している。問題は、それをあからさまに行ったスメドレイと上層部との内紛による、今回のような"茶番劇"が全世界に公開された事実である。それが前科を持つフェラーリだったため、多くのファンは「またか」と思い、新しいファンは幻滅する。少なくとも'03年にルールが明確化した以上、それを守り貫くのは、例えフェラーリと言えども"義務"である。<br /><br />.....結局フェラーリは10万ドルの罰金だけで、まんまと1-2フィニッシュを手に入れた。10万ドル払えばチーム・オーダーをしてもかまわない、と解釈されてしまうのが最も危険なことである。そして、フェラーリのスタッフにはおおいに揉めて頂きたい。そして、レーシングという概念がいったいどういうものなのか、をF1のトップに君臨する偉大なるスクーデリアとして証明して欲しい。選手権を争うために必要なもの／不要なもの、そして行うべきもの、をしっかりと見せて貰いたい。しらばっくれるのはF3ドライバーにだって出来ること。スペインの英雄／2度の世界王者に、あんな台詞を吐かせている場合ではない。<br /><br /><br /><i>「彼（マッサ）のスロー・ダウンには驚いた」／フェルナンド・アロンソ</i></font></p>
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    <title>王者の意外な真実</title>
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    <published>2010-07-21T12:13:19Z</published>
    <updated>2010-07-21T12:21:15Z</updated>

    <summary>.....F1世界選手権&apos;10年シーズンも遂に折り返し地点を超え、今シーズンの各...</summary>
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        <name>加瀬竜哉</name>
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        <category term="タチの悪い歴史の紐解き方" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<font color="#3e6b3a">.....F1世界選手権'10年シーズンも遂に折り返し地点を超え、今シーズンの各チームの勢力図がハッキリして来た。と同時に、今季がいったいどれだけ混迷のシーズンなのかを象徴するような途中経過となっている。第10戦イギリスGPを終え、現在ドライバーズ・ランキング上位5名は以下の通り。<br /><br /></font>
<table border="0">
<tbody>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a">1</font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">ルイス・ハミルトン（マクラーレン・メルセデス）</font></td>
<td width="5"></td>
<td align="right"><font color="#3e6b3a">145点</font></td></tr>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a">2</font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">ジェンソン・バトン（マクラーレン・メルセデス）</font></td>
<td width="5"></td>
<td align="right"><font color="#3e6b3a">133点</font></td></tr>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a">3</font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">マーク・ウェバー（レッドブル・ルノー）</font></td>
<td width="5"></td>
<td align="right"><font color="#3e6b3a">128点</font></td></tr>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a">4</font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">セバスチャン・ヴェッテル（レッドブル・ルノー）</font></td>
<td width="5"></td>
<td align="right"><font color="#3e6b3a">121点</font></td></tr>
<tr>
<td><font color="#3e6b3a">5</font></td>
<td width="5"></td>
<td><font color="#3e6b3a">フェルナンド・アロンソ（フェラーリ）</font></td>
<td width="5"></td>
<td align="right"><font color="#3e6b3a">98点</font></td></tr></tbody></table><font color="#3e6b3a"><br />.....まず、この時点でのドライバーズ・ランキング上位2名を今シーズン開幕前に言い当てることが出来た人はおそらくいないだろう。それは、ひとつには昨年終盤に向けて無類の速さを誇った<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-24.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">レッドブル</font></a>が'10年の大本命チームであり、それは同時に若き挑戦者、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/goseb.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">セバスチャン・ヴェッテル</font></a>の選手権独走に近い状況を予想させた。また'09年シーズン途中に現行マシンの開発を諦め、早期に'10年型新車の開発に力を注いで来た<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/06/post-29.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェラーリ</font></a>の大躍進も期待された。更にディフェンディング・チャンピオンとなった<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ブラウンGP改めメルセデスGP</font></a>の誕生と、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/post-19.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">皇帝ミハエル・シューマッハー</font></a>の電撃復帰も相まって、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/m.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マクラーレン</font></a>・メルセデス勢は良くてその下、場合によっては優勝戦線からは昨年のように遠ざかったシーズン・スタートになるのではとまで思われていた。<br />それが、現在マクラーレン勢のふたりが僅か12ポイント差で1-2態勢を築き、コンストラクターズ選手権でもマクラーレン278点／レッドブル249点でブッチ切りの首位である。確かに、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/05/post-25.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">マーク・ウェバー</font></a>はシルバーストンで3勝目を挙げ、ヴェッテルとの熾烈な"チーム内No.1争い"を繰り広げながら猛追して来ている。が、数字上マクラーレンのふたりがこうしてトップを守っているのは事実であり、今シーズン最大の驚きとも言える。<br /><br />.....昨年、ブラウンGP・メルセデスで初の世界王者となったジェンソン・バトン。イギリス人として10人目の世界王者への道程は簡単ではなかった。そのバトンが今季マクラーレンへの移籍を決めた時、多くの人がその選択は失敗であり、彼はブラウンGPに残留すべきだったと言った。その理由のひとつには、マクレーレンには秘蔵っ子のエース、'08年王者<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/04/f1-3.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ルイス・ハミルトン</font></a>がいるからだ、が、結果的に現在バトンはそのハミルトンと僅差でランキング2位となり、メルセデスGPもレッドブルも見下ろす位置にいる。周囲の予想を覆すその強さはいったい何処から来ているのか。<br />人生最大のギャンブルに打って出た英国のプレイ・ボーイ、ジェンソン・バトンのキャリアを、今こそ振り返ってみたい。<br /><br />ジェンソン・アレクサンダー・ライオンズ・バトンは'80年1月19日、イングランド／サマセット州にて'76年イギリス・ラリークロス選手権2位の父、ジョンと妻シモーンの間に誕生。ジェンソンが7歳の時に両親は別居し、ジェンソンは父ジョンと共に暮らしていた。その年のクリスマス、ジョンはジェンソンにレーシング・カートをプレゼントする。ジェンソンはこのおもちゃに即座に夢中になるが、反面友人関係には難しい側面を齎した。「僕は内気だったのでカートをやってることは皆に内緒にしていたんだ。'91年にカデット・カート・チャンピオンになった時（34戦全勝！）、学校が祝賀会を開くと言って酷く困惑した。僕はそれは父との秘密にしておきたかったんだよ！」ジェンソンはヘルメットの内部に閉じ込められた小さな自分が普段の姿から"変身"し、大胆不敵なヒーローになった、と感じていた。それはまるでスーパーマンのようなイメージであり、ジェンソン少年にはその正体を皆に知られることは不本意なことだったのである。「<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_80.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">アラン・プロスト</font></a>と<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_33.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ナイジェル・マンセル</font></a>が僕のヒーローだったんだ。僕のドライビング・スタイルはきっとアランに似ているんじゃないかな。基本的にはスムーズで、リスクが必要な時は計算するんだ」<br />父ジョンはジェンソンの才能を素早く見抜き、自らも没頭したモーター・レーシングの世界でジェンソンが必ず成功することを確信、惜しみない投資とバックアップを行った。そしてジェンソンは'97年カート・スーパーAクラス・ヨーロッパ選手権を史上最年少（17歳）で制覇、その後18歳でイギリス・フォーミュラ・フォード選手権にステップ・アップし、初年度から9勝を挙げて王座獲得。この活躍でマクラーレン／オートスポーツのヤング・ドライバー・オブ・ザ・イヤーを受賞、マクラーレンのF1テストのご褒美を得た。<br />'99年、ジェンソンはイギリスF3選手権にステップ・アップし、3勝を挙げてルーキー最上位のランキング3位。秋にはF1のプロスト・グランプリからオファーを受けてルーキー・テストに参加、レギュラーの<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_42.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ジャン・アレジ</font></a>を上回る好タイムを記録して見せた。'00年、ようやく自動車運転免許を取得した20歳のジェンソンはF1の<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_28.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ウィリアムズ</font></a>・チームに抜擢され、遂にF1デビュー。第2戦ブラジルGPで6位初入賞し、20歳67日での最年少入賞記録（当時）を樹立。イギリス期待の若手は順風満帆なF1デビューを飾った。<br />翌'01年、バトンは<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_110.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ベネトン</font></a>・ルノーへと移籍。契約そのものはウィリアムズが持っていたが、彼らはCART王者のファン・パブロ・モントーヤを起用するためにバトンをベネトンへとレンタル移籍させたのである。しかしバトンの成績は振るわず、入賞1回／ランキング17位。「F1はドライビング技術だけで充分だと思っていたけど、それは間違いだった」この頃、バトンはグリッド上で最も派手なプレイボーイというレッテルを貼られ、チーム・マネージャーの<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/09/post-10.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フラビオ・ブリアトーレ</font></a>は「ジェンソンは新聞の良い記事だけを読んで、自分が大スターだと思い込むようになってしまった」と語った。<br />'02年はルノーがベネトンを買収し、フル・ワークスとなった。チームの戦闘力は上がったものの優勝争いには程遠く、表彰台なしのランキング7位でシーズンを終了。「F1では4位が誰だったかなんて誰も気にしてない。表彰台に立たなくては僕の存在は認知されないんだと解ったよ」鳴り物入りでF1デビューしたバトンは低迷するルノーと訣別し、'03年の<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_95.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">BAR</font></a>（ブリティッシュ・アメリカン・レーシング）ホンダへの移籍を決断。'97年王者のジャック・ヴィルヌーヴのチーム・メイトとなる。バトンは元チャンピオンを相手に常にリードする走りを見せ、17ポイント獲得でランキング9位となり、チームの新たなエースとなった。反対にヴィルヌーヴはシーズン終盤に自らチームを離脱して行った。<br />'04年、バトンは日本の<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/02/post-22.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">佐藤琢磨</font></a>をチーム・メイトに迎え、新車BAR006・ホンダの高い戦闘力を武器に大躍進。第2戦マレーシアGPでは自身初の表彰台となる2位でフィニッシュし、第4戦サンマリノGPでは自身初のポール・ポジションを獲得。最終的に2位4回／3位6回でシューマッハー／ルーベンス・バリチェロのフェラーリ勢に続くドライバーズ・ランキング3位を獲得した。BARもコンストラクターズ2位となり、あと足りないのは勝利だけ、となっていた。<br /><br />迎えた'05年、バトンは自らの境遇と将来について考え始めていた。「ホンダは将来の参戦計画を明白にしていなかった。それで古巣のウィリアムズと話をするようになったんだ」バトンはウィリアムズと新たな2年契約を締結、しかし既に長期契約を結んでいたBAR側が移籍無効の申し立てを行い、結果的にFIAが介入し、CRB（F1契約承認委員会）によってバトンのウィリアムズ移籍は無効となった。所謂"バトン・ゲート"である。結局BARに残留したバトンだったが、チームは前年の大活躍が嘘のような低迷期に陥り、ランキング9位となってしまった。そして最終的にこの年ホンダがBARを買収、バトンの望み通り、チームはワークス・ホンダとなった。<br />'06年、ワークス・ホンダは琢磨を切り、フェラーリからバリチェロを加入させた。未勝利のまま参戦101戦目を迎えるバトンは正念場を迎えていた。第13戦ハンガリーGP。予選4位と好調だったバトンはエンジン交換のために10グリッド降格となり、14番手スタート。雨の決勝、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2009/07/forza-felipe-siamo-con-te.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">フェリペ・マッサ</font></a>（フェラーリ）、ジャンカルロ・フィジケラ（ルノー）、<a href="http://www.f1-stinger.com/stinger_village/kasetatsuya/2010/01/iceman.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">キミ・ライコネン</font></a>（マクラーレン・メルセデス）、そしてミハエル・シューマッハー（フェラーリ）など、トップ集団が次々とミスで脱落。52周目にフェルナンド・アロンソ（ルノー）がコース・オフし、気付けば14番手スタートのバトンがミシュランのウェット・タイヤを上手く使いこなし、トップへ。結局そのままバトンが独走で勝利、F1参戦113戦目の初優勝は史上3番目に遅い記録（当時）であった。「今日は何という日だろう。とにかくこれまで僕を応援してくれた家族と関係者にお礼を言いたい。この日が来るのを信じてずっと仕事をして来たんだ」またこの勝利はホンダ・ワークスにとって<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_69.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">'67年のジョン・サーティース</font></a>以来の3勝目となり、F1のポディウムで39年振りに"君が代"が流れた記念すべき勝利でもあった。<br />'07年、ホンダに残留したバトンはまたもチームの低迷期に苦しむ。獲得ポイントは僅か6点で年間ランキング15位、チーム・メイトのバリチェロに至ってはノー・ポイントという有様だった。そして翌'08年、<a href="http://www.honda.co.jp/news/2008/c081205.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ホンダは経済不安を理由にF1撤退</font></a>を決定。バトンは僅か3ポイント獲得／ランキング18位で念願の"ワークス・シーズン"を終えることとなってしまった。<br /><br />'09年、ホンダF1撤退によって<a href="http://www.dragonlion.biz/uk/uk_116.html" target="_blank"><font color="#ff00ff">ロス・ブラウン</font></a>率いる新チーム、ブラウンGPが誕生した。しかしこれは僅か1ポンドでのマネジメント・バイアウトによるもので、大きな買収先のないまま、ホンダに放り出された形のままの状態だった。当時、周囲は当然このチームの戦闘力に関して懐疑的だった。が、ブラウンと参謀のニック・フライはホンダ撤退の置き土産である新車の出来があまりにも良く、シーズン制覇も決して不可能ではないことに気付いていた。ブラウンはバトン／バリチェロの両ドライバーに残留を求めた。.....しかしその契約内容はあまりにも残酷なものであった。前年の'08年に15億円だったバトンの年棒は一気に5億円までコスト・カットされ、移動の飛行機代すら自腹となった。が、それでもバトンはチーム残留を了承した。「ロスとチーム、そして自分の運命を信じ、賭けたんだ！」そしてブラウンGP・BGP001・メルセデスはシェイク・ダウンから僅か19日後の開幕戦オーストラリアGPでバトン／バリチェロにより予選フロント・ロウ独占～決勝1-2フィニッシュ、という快挙を成し遂げる。「どうだい、まるでおとぎ話みたいじゃないか！。でも、シルバーストンで初めてこのマシンを走らせた時、こうなる予感はあったんだ。とにかくこの2年間の最悪なシーズンを我慢して来て、今日このような結果が出せて最高だよ！」ブラウンGP・BGP001は特殊なディフューザー構造などで他チームから抗議を受けるも、結果的に合法であるとの結論がFIAから出され、バトンはなんと第7戦トルコGPまでに6勝を達成。この時点でほぼタイトルを手中に収めていた。が、ここからチーム・メイトのバリチェロとレッドブル勢の追反撃に合い、シーズン中盤バトンのリザルトは低迷する。<br />迎えた第16戦ブラジルGP。バトンは85ポイントで選手権トップ、追うバリチェロは71点、レッドブルのヴェッテルが69点で続く。残り2戦、ここでバトンはタイヤ選択に失敗し、予選14位と低迷する。ポール・ポジションは地元バリチェロが獲得。しかし決勝では上位の脱落により5位まで上がり、最終的にレース終盤のバリチェロの低迷にも助けられ、最終戦を待たずして念願の初タイトル獲得。これによりブラウンGPも参戦初年度でWタイトル獲得が決定し、記録的なシーズンが終了した。「もちろん自信はあった。でも今日はタイヤ選択を失敗していたし、インテルラゴスの最終コーナーを立ち上がるまでは信じられなかったよ。勝てなかった夏の間は確かにフラストレーションが溜ったけど、今は全てが報われた気分だ！」バトンは最終戦アブダビGPで3位となり、結果的に第12戦ベルギーGPでのリタイヤ以外、全戦入賞を果たしてのタイトル獲得となった。しかし、バトンの初タイトル獲得はブラウンGP・BGP001・メルセデスの性能によるところが大きいと、シーズン中盤の低迷のイメージも含め、決してその功績を讃えるものばかりではなかった。<br /><br />'10年、当初はブラウンGP残留に向けて交渉を行っていたバトンだったが、チームがメルセデスによる買収を受け、シューマッハーの復帰が噂され始めると、バトンはなんと自らマクラーレンへの移籍を決めたのである。しかしマクラーレンはそのメルセデスとのワークス契約を解消、しかもチームには絶対的エースである同じ英国人、ハミルトンがいる。バトンの決断は多くの関係者から無謀であると揶揄され、この移籍は失敗に終ると思われた。「僕には新しい挑戦が必要だったんだ。それに、昨年僕は序盤にバック・マーカーだったマクラーレンがシーズン終盤にはトップ・ランナーになったところをこの眼で見ている。だから彼らを信じるよ」シーズンが開幕すると、バトンの予想は当たり、マクラーレンは戦闘力の高いパッケージでメルセデスGPを寄せ付けず、バトンは4戦を終えた時点で2勝（第2戦オーストラリアGP／第4戦中国GP）を挙げ、堂々のランキング首位に立っていたのである。続くモナコGPではチームのミスでリタイヤを喫するが、今季ここまでモナコ以外の全てのレースに入賞し、現在もランキング2位。レッドブルがチーム・メイト同士の内紛に大わらわなのを尻目に、ある意味ダーク・ホースとも言えるマクラーレン勢がトップに立っている、というわけなのである。「彼らの同士討ちは僕達にとっては大きなチャンスだ。ルイスと僕は最高に上手くやれているし、チームもそういったことには慣れている。それに、選手権を制覇したドライバーが翌年も連覇出来る可能性は僅か30パーセント。そして僕は昨年証明したように、オッズを覆すのが得意なんだ（笑）」このままレッドブルが自滅すれば、今季がバトンとハミルトンのマクラーレン・コンビによる"フェアな"選手権争いとなる可能性もあるのである。<br /><br />「ひとつのタイトル獲得は始まりに過ぎないんだ」バトンは振り返る。「僕の夢はF1世界チャンピオンとモナコGP優勝だった。それを昨年成し遂げたけど、今はそれを他人に渡したくないという想いが強い（笑）。30歳になって、ようやく全てが正しい方向に向かっている気がするんだ。だから、マクラーレン移籍は復讐や誰かの間違いを証明することではなくて、あくまでも自分自身が決めた道なんだよ」そう、バトンは未だ30歳である。若くしてのF1デビューと9年間の不遇の時代のせいで超ベテランのように見られるが、実際には脂ののったアスリートであると言える。<br /><br />我が日本に於けるバトンのイメージは、やはり第三期ホンダの初優勝立役者、そして日本人のGFを持つF1ドライバーとして人気も高く、そのルックスも含めて好意的に受け止められている。特に'06年第13戦ハンガリーGPでの勝利と昨年開幕戦での勝利は日本のファンから見ても特別な勝利である。しかしそれはF1ドライバーとしてのキャリアの前半／半分をほぼ棒に振ったように感じられる。かつてホンダのスタッフは「ジェンソンはあまり調子の良くないマシンでも上手く乗りこなす。が、それ故にマシンの何処を改善すべきかが見えて来ない」とこぼしていた。F3から一気にF1に上がって来たバトンにとって、マシン・セッティングやチームとのブリーフィングはあまり重要なものではなく、むしろ自分のドライビングが全て、という印象があった。「今思えば、僕の転機は'02年だった。多くのことを犠牲にして、本当に速く走るためにどうすれば良いのかを考え始めた。逆にそれまでは人生をエンジョイすることに傾倒し過ぎていたかも知れない」プレイボーイだったバトンは'05年、婚約者のルイーズ・グリフィスと挙式3ヶ月前に別離。昨年までグランプリに伴っていた日本のモデル・<a href="http://blog.honeyee.com/jessica/" target="_blank"><font color="#ff00ff">道端ジェシカ</font></a>とも、一時は婚約の噂もあったが今は微妙な関係のようである。「僕はあまりにも長くレースのことを考えている。トラックを離れるとリラックス出来なくなってしまったんだ」バトンは20歳代を通じて変わった。そして、それは世界王者という最高のご褒美となって彼の元に転がり込んだのである。<br /><br />昨シーズン中、バトンのタイトル獲得に関しては多くの意見／見方があった。その中のいくつかは、果たしてバトン自身が世界チャンピオンに相応しいドライバーか、というものでもあった。何故なら、確かにバトンは'06年第13戦ハンガリーGPで勝利を挙げているF1ドライバーでありながらも、このレースでも序盤から中盤にかけてのトップ集団の脱落に乗じた"ラッキーな勝利"という考え方が成立した。そして、バトン自身、'09年以前に例えばフェラーリ、例えばマクラーレン、といった完全な常勝トップ・チームへの移籍を模索するような経緯がなく、低迷したホンダのF1撤退で一見勝利の可能性が全くなくなったかに見えた新興チームであるブラウンGPでの突然の快進撃に、あまりにも"マシンのおかげの勝利"というレッテルを貼られてしまうのである。更にシーズン序盤に7戦6勝を挙げながらも途中からスランプに陥り、全く表彰台に立たなくなってしまう。同時期にチーム・メイトのバリチェロが快進撃を開始したあたりの流れから、バトンには"運が尽きた"というイメージが付きまとう。更に、最終的に追い上げて来たライバル、チーム・メイトやレッドブル勢に対しても太刀打ち出来ず、結果的には前半の貯金をどうにか守り切った形でのタイトル獲得、となった感は否めない。<br />しかし、昨年学んだ"タイトルの掴み方"を、'10年の今まさにバトンは踏襲してみせているとも言える。チャンスを逃さないクレバーな走りと冷静なタイヤ戦術。ただ闇雲に悪コンディションのマシンを振り回していた若い頃とは違う技を身につけ、バトンは完全に成長した姿を見せてくれているのである。そして現状、今季のチャンピオンが誰になるのかを予想するのは極めて難しい。これは昨年とは全く逆の状況である。が、その状況の中に今年もバトンがいる、というのは多くの関係者の予想同様、少々意外なことと言える。が、それは紛うことなきバトンの"成長の証し"なのである。<br /><br />「当初、僕にとってはチームのエンジニアとブリーフィングをしたり、オフにフィットネスをしたりというのは面倒なことだったんだ。それが今は完全に生活の一部になってる。身も心もようやくF1ドライバーになれたってことなんじゃないかな」6月、バトンはエリザベス女王から大英帝国勲章第5位／MBEを授与された。もう、英国のプレイ・ボーイなんかじゃない。大英帝国を代表する立派なF1世界王者のひとりである。しかし、バトンの最も手強いライバルはチーム・メイトである。内紛に揺れるレッドブルを尻目に、ハミルトンと"今は友好的に"チームを盛り上げるバトンが今後どういった闘い方をするのか、が最大の焦点と言えるだろう。<br /><br /><br /></font><i><font color="#3e6b3a">「僕の自伝映画を作るなら、ジョニー・デップに演じて欲しいね！」／ジェンソン・バトン</font></i>]]>
        
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